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【2024/10/06 13:34 】 |
├─≠ョ─ヵラスとポルノグラフィティ
├─≠ョ─ヵラス アゲハ蝶
├─≠ョ─ヵラス









├─≠ョ─ヵラス メンバーは、広島県因島市(現・尾道市)出身の岡野昭仁(ボーカル)と新藤晴一(ギター)。
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【2010/11/16 22:19 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
├─≠ョ─ヵラス
├─≠ョ─ヵラス 辻 仁成
├─≠ョ─ヵラス









├─≠ョ─ヵラス 辻 仁成(つじ じんせい/つじ ひとなり、1959年10月4日 - )は、日本のミュージシャン、映画監督、小説家。「仁成」は歌手・映画監督の場合は「じんせい」、作家活動では「ひとなり」、バンド『ZAMZA』での活動時は「Zinc White」もしくは単に「Zinc」と称する。本名は「ひとなり」。叔父は童話作家の東君平。初婚は女性カメラマン[要出典]で、後に破局。女優の南果歩と再婚し一児を授かるが、再び離婚。2002 年に女優の中山美穂と再々婚し、現在はフランス・パリを拠点に創作活動を続けている。
目次 [非表示]
1 略歴
2 著書
2.1 小説
2.2 詩集
2.3 エッセイ
2.4 ビデオ
3 音楽
3.1 作品
3.2 楽曲を提供・プロデュースしたアーティスト
3.3 プロデュースしたアーティスト
4 映画監督
5 原作の提供・脚本
5.1 テレビドラマ
5.2 映画
6 出演番組
6.1 テレビドラマ
6.2 ラジオ
7 エピソード
8 外部リンク
9 脚注
略歴 [編集]

東京都南多摩郡日野町(現日野市)に生まれる。少年期は父親の仕事の都合で福岡市、帯広市、函館市と各地を転々とした。北海道函館西高等学校卒業し、成城大学経済学部に進学するも中退。1985年にロックバンドの「ECHOES(エコーズ)」のヴォーカリストとしてデビューする。1991年、5月東京・日比谷野外音楽堂でのライブを最後に、10年に及ぶバンド活動にピリオドを打ちECHOES解散。その後、ソロ活動へ。
1989年、『ピアニシモ』で第13回すばる文学賞を受賞し作家デビュー。1991年、本格的に作家としての活動を始める。
1994年、『母なる凪と父なる時化』で芥川賞候補、『ミラクル』が青少年読書感想文課題図書になる。
1996年、『アンチノイズ』が三島由紀夫賞候補に。
1997年、『海峡の光』で第116回芥川賞を受賞(柳美里『家族シネマ』と同時受賞)。同年に函館市栄誉賞受賞。
1999年、『白仏』の仏翻訳語版 Le Bouddha blanc(仏語翻訳者:Corinne Atlan)でフランスの五大文学賞の一つであるフェミナ賞の外国小説賞を日本人として初めて受賞。『白仏』は祖父、今村豊をモデルとした作品。
2003年、渡仏。現在は拠点をフランスに置き、創作活動を続けている。
2007年より京都造形芸術大学芸術表現・アートプロデュース学科クリエイティブ・ライティングコース教授。
2009年3月23日にはHEY!HEY!HEY!MUSIC CHAMPに新バンド、ザムザンバンシー(現・ZAMZA)で出演し、約20年ぶりにテレビで『ZOO』を披露した。
瀬戸内寂聴や江國香織、千住博、建築家の坂茂と交友が深い。
【2010/11/12 20:17 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
西本幸雄の投球踊り
西本 幸雄(にしもと ゆきお、1920年4月25日 - )は、和歌山県出身の元プロ野球選手・監督、元野球解説者。
目次 [非表示]
1 経歴
2 エピソード
2.1 三原監督スッポカシ事件
2.2 大毎監督辞任
2.3 監督信任投票事件
2.4 幻の信任投票
2.5 羽田殴打事件
2.6 江夏の21球
2.7 左投げの二塁手
2.8 三原脩との因縁
3 タイトル・表彰
4 通算成績
5 監督としてのチーム成績
6 監督通算成績
7 背番号
8 出演
8.1 TV
8.2 CM
9 脚注
10 関連項目
経歴 [編集]

父親は日本勧業銀行(後の第一勧業銀行、現みずほ銀行)に勤務する銀行員であり、裕福な家庭に育つ。1933年に野球の名門校だった旧制県立和歌山中学校(現・和歌山県立桐蔭高等学校)に進学する。当時は野球部に入れば「勉学をあきらめる覚悟が必要」だったため入部をあきらめ、3年生の時にはラグビー部に所属していた[1]。しかし、4年生の秋、5年生7人が引退して5人だけになった野球部に入部し、二塁手、一塁手を務め、時にはリリーフ投手としてマウンドにも立った[2]。1937年夏の甲子園の紀和大会予選決勝では海草中学校(現・和歌山県立向陽高等学校)と対戦。当時3年生の嶋清一の前に敗れて甲子園出場はならなかった[3]。1938年に旧制立教大学に進学。当時の立教大学野球部には監督がおらず、のちには実質的な監督役を務めている。文部省の命令でリーグ戦が中止となった1943年5月には自ら申し入れて明治大学との対外試合をおこなった[4]。学徒出陣により同年秋に応召。中国で終戦を迎え、復員後は八幡製鉄-全京都-別府星野組と社会人チームを渡り歩く。星野組時代の1949年には監督・一塁手・3番打者として都市対抗野球に出場、優勝に輝いた。
1950年、毎日オリオンズに入団。プロ入り時には既に30歳であり、選手としてのピークは過ぎていたが、1番(または2番)・一塁手の定位置を確保し、毎日のパ・リーグ優勝と日本一(日本シリーズ優勝)に貢献した。1952年には主将を、1954年には兼任コーチを務めている。
1955年限りで現役を引退した後、1956年から1958年まで毎日の2軍監督を努める。1959年には1軍コーチに昇格し、1960年に前年限りで退任した別当薫に代わって監督に就任。1年目にしてチームをリーグ優勝に導いたが、日本シリーズ第2戦での戦術(1死満塁のチャンスにスクイズプレイを仕掛けたがダブルプレー)を巡り永田雅一オーナーと対立し、責任を取る形で辞任した(辞任の経緯については後述)。
その後日本短波放送解説者を1年間務め、1962年、阪急ブレーブスにコーチとして招かれ、翌年監督に就任。1967年初優勝。1973年までの11年間で5度のリーグ優勝に導き、常勝球団へと育て上げた。同年限りで勇退。1974年より近鉄バファローズ監督。ここでも1979年に球団初のリーグ優勝を果たした(2シーズン制時代の1975年に後期優勝)。1981年勇退。その後関西テレビ(1982年〜2003年)とスポーツニッポン(1982年〜)で野球解説をしている。1988年野球殿堂入り。
20年間の監督生活で8度のリーグ優勝を果たしながら、日本シリーズでは1度も日本一に就けず「悲運の名将」と言われた。ただし西本当人は自分が「悲運の名将」と言われることには否定的で、「選手が頑張ってくれたおかげで8度も日本シリーズに出場できたのだから、私は幸せ者だ」と語っている。3つのチームを優勝に導いた監督は2009年現在、西本と三原脩のみ。三原が指揮したのが1リーグ時代の巨人とセ・パ両リーグから1チームずつ(西鉄・大洋)だったのに対し、西本が指揮したチームはすべてパ・リーグであり、現役時代も含めてパ・リーグ一筋の野球人生だった。
阪急・近鉄時代には時間をかけて選手を育て、チームを作り変え、弱小球団を常勝軍団へと導いた。西本のように、2チームで自らチームの土台を作り上げて優勝させた監督は極めて稀である(他には南海・ヤクルトを率いた野村克也など一握り)。
1960年の大毎監督辞任、1966年の信任投票事件、1975年の羽田殴打事件などに見られるように、チームの強化と見込んだ選手の育成のためにはあえて鉄拳制裁や自身の首をかけることも辞さなかった。1978年オフには監督辞任を表明したが、「俺たちを見捨てないでくれ!」と選手に引き止められて辞任を撤回し、1979年・1980年とリーグ二連覇を達成。そして勇退表明後、最後の試合となった1981年の近鉄-阪急最終戦(日生球場)では両チームの選手から胴上げされた。
阪急の監督を勇退した次のシーズンから同一リーグである近鉄の指揮を執ったが、このときは近鉄側から阪急の森薫オーナーに対して近鉄の監督に迎えたいという要請があり、森オーナーも本人の意向に任せるとしてこれを承諾した。近鉄との契約の席には森と近鉄社長の今里英三が同席する異例の形となった。このため、後に野村克也や星野仙一が阪神タイガースの監督に就任したときのような非難めいた議論は当時起きなかった(また、野村や星野の阪神監督就任時にこの西本の前例にはほとんど言及されなかった)。
監督勇退後は長らくプロ野球ニュース(フジテレビ系)の解説者を務めたが、東京(フジテレビ)のスタジオに出向くことは比較的少なく、特に高齢となった1990年代後半からは大阪・関西テレビからの中継が多かった。この他、1984年限りで辞任した安藤統男監督の後任として阪神から監督就任要請を受けるも、表向きは高齢であることを理由に辞退している。
2003年9月15日、阪神タイガースがセ・リーグ優勝を決めた阪神対広島戦を最後に、高齢ということもあり同局の解説業から勇退した。
近鉄時代には土井正博、永淵洋三、佐々木宏一郎、伊勢孝夫、神部年男といった主力の生え抜き選手を自らの提案でトレードに出し、エースの鈴木啓示との確執が何度となく噂されたが、ファンからは「西本さんならチームを強くしてくれる」と厚い信頼を得ていたため、非難の声は少なく進退問題に発展することはなかった。
鶴岡一人、千葉茂亡き今、日本プロ野球界において川上哲治に次ぐ重鎮中の重鎮で多大な影響力を持っている人物であり、教え子には長池徳士、山田久志、加藤英司、福本豊、今井雄太郎、鈴木啓示、梨田昌孝などが挙げられる。
エピソード [編集]

三原監督スッポカシ事件 [編集]
佐々木信也(スポーツ評論家)がNHK教育テレビジョン「知るを楽しむ」で語ったところによると、1960年の日本シリーズ開幕を翌日に控え、西本と大洋ホエールズの三原脩監督の直前対談(佐々木司会)が日本教育テレビ(NETテレビ。現・テレビ朝日)の生放送で行われることになっていた。
ところが生放送のスタジオに三原がなかなか現れず、18時の放送開始当初から佐々木と西本による2人での座談会に終始した。これに西本は激昂し退席しようとしたが、佐々木が引き止めて何とか30分の対談は行われた。しかし三原はとうとう出演せず、本番終了後も西本の怒りは収まらず、NETからの出演ギャラも受け取らずに早々に自宅に引き上げた。
大毎監督辞任 [編集]
1960年の日本シリーズ終了後、在任わずか1年で西本は大毎監督を辞任する。その原因は、日本シリーズの采配にあった。三原脩監督率いる大洋の先勝で迎えた第2戦(10月12日、川崎球場)の8回表、大毎は、まず先頭打者の坂本文次郎がセーフティ・バントで出塁、続く田宮謙次郎の時に土井淳のパスボールで坂本が進塁、田宮も四球を選ぶ。さらに榎本喜八がバントでランナーを送り、1死二・三塁のチャンスを作った。ここで大洋は先発・権藤正利をあきらめ、アンダーハンドのエース秋山登を投入し、山内一弘を敬遠させ次の谷本稔と勝負する作戦に出た。谷本の第1打のファールの後、西本はスクイズプレイのサインを送った。第2打で、谷本はサイン通りスクイズを仕掛けたが、打球はグラウンドでバウンドして捕手・土井の方向に転がった。土井は即座にボールをつかむと、本塁に駆け込んできた坂本にタッチした後、一塁に送球してを刺しダブルプレーとした。結局大毎はこの試合を落とし、2連敗を喫した。
大毎のオーナー・永田雅一は試合をプロ野球関係者と一緒に観戦していたが、このスクイズを「今のはどうなの?」と聞いたらその関係者は今の場面でスクイズはありえない、と説明したため、試合後、永田は西本に電話を入れ、「ミサイル打線を誇る大毎が、好機にバントなどというアホらしい作戦を採るとは何事か!!」とスクイズの件を非難した。しかし西本も「打線の状態は私が一番熟知しているので、ご安心下さい」と主張して退かなかった。このシーズン、大毎は18連勝するなど快調に飛ばしていたが、終盤失速し、優勝を決めたのは最終戦の2試合前だった。
激怒した永田は「バカヤロー」と西本を罵り、西本は「バカヤローとはなんですか、撤回していただきたい」と取り消しを求めた。しかし永田は応じず、そのまま電話を切ってしまい、会話は終わった。結局、日本シリーズは大毎のストレート負けで終わり、西本は現役時代から所属した大毎を実質的な解任で去った。伊集院光によると、TBSに入社した永田の孫の守は「もし横浜(TBSは大洋の後身である横浜を2003年に買収)が優勝を狙えるチームになったら、西本さんを監督に招いて、『これで亡き祖父を許してくれないか』と伝えたい」と語ったという。
当時大毎のスカウトを務め、永田雅一のもとにいた青木一三は、西本の監督退任について以下のように記している(要約)。「永田はシリーズ終了後に一応西本が挨拶に来るのを待っていたが、毎日新聞系の球団幹部が西本を温泉に「隔離」して会わせなかった。これを大映と毎日の「二頭政治」の弊害だと考えた永田は経営を大映に一本化して毎日側の役員を退任させ、同時に毎日側の役員が就任させた西本も合わせて退任した[5]。」
これに対して西本は1967年の座談会で、シリーズ終了後2日ほど自宅に帰る気になれず「雲隠れ」したものの、青木が言うようなことはなかったと発言[6]。戻ったあとに後援者などによる「残念会」の席で「4連敗についてはおわびせにゃいかんな」と電話のダイヤルを回しかけたが、「もうやめたらどうか」という声が参加者からあがったため、かけずにそのままになり、足を運んでお詫びをする気にもならないでいたところ、監督やスタッフが決まっていたと述べている[6]。西本はその後永田のもとに出向いて「お世話になりました」とだけ挨拶したという[6]。西本は2001年のインタビューでは「解任されたのか自分から辞めたのか、どちらかよくわからない」と語っている[7]。
監督信任投票事件 [編集]
1963年、西本は戸倉勝城の後任として阪急監督に就任した。弱小チームを立て直すためキャッチボールのやり方からやり直させるという厳しい練習姿勢で臨んだが、就任1年目でチームは最下位に転落する。この当時の阪急は「灰色の時代」と揶揄されるほどの弱小球団であった。1966年シーズン終了の時点で、1964年の2位が最高で、1965年は4位、1966年は5位と、後はBクラスだった。幾ら自分が汗水たらしても選手が付いていかずに悶々していた西本は、その年の秋季キャンプ初日、一軍マネージャーを介して選手に信任投票を義務付けるという思い切った策に出た。「監督についていけるものは=○、ついていけないものは=×を書くこと」というもので、西本は選手全員が自分を信頼しているか否かを見極める、という意図があった。
投票の集計結果は○32、×11、白紙4。
「×が一票でもあれば辞任する」と決めていた西本は「こんな結果ではチームは動かない。どうせなら俺がやめるしかない」と判断し、小林米三オーナーに辞任を申し入れ、自宅にこもってしまった。
「×11、白紙4」という結果には、「主力・若手とも分け隔てなく鍛える」という西本の育成法に、当時の主力選手が辟易していたという事情があった。当時のエース米田哲也は「西本さんはとても困った監督で、練習態度が悪かったり試合前に飲んで二日酔いでゲームに出れば、たとえ主力でも使ってもらえなかった。試合での活躍が月給にはね返る我々としては、たとえふらついていようが試合に使ってもらいたい…と考えていた。でないと、勝てない。これを考えると西本さんの厳格さは困ったものだ」と引退後述懐している。
選手には西本を排斥する意図はなかった。 それでも西本が辞任にこだわった背景には、岡野祐社長(のちパシフィック・リーグ会長)ら当時の球団フロントへの不信感があった。西本は、主力選手が彼への不満を、フロントとの酒席で漏らしている事実を掴んでいた。また一部のフロントは、その年ヘッドコーチに就任した青田昇を可愛がっていて、青田を次期監督にしたいと考えていたといわれる。西本は「フロントが自分を辞めさせたがっているのではないか」と疑心暗鬼に駆られながらも、「偉い人との酒の席だから口先を合わせているだけで、本当は理解してくれている」と選手を信じていた。
西本の辞任申し入れで、一部フロントが企図した「青田体制」は実現に向かって前進したかに見えた。だが小林は、西本に対しては「報告は球団社長(=岡野)から聞く」と縦の線を守り通しつつ、岡野に対し「たとえ何年かかろうと西本を翻意させろ!阪急の再建は西本以外にない!」と説得を厳命。岡野から「小林オーナーがお前を信頼している」と告げられ、辞意を撤回した。同時に西本は、「組織としては非常に危険な考えかもしれないが、俺が監督である間は、選手個々の意志に遠慮する事無く、俺が思う方向へ選手を持っていくしかない」と腹を括ったという。
翌1967年、阪急は球団創設32年目にして悲願のリーグ優勝を果たす。これ以降阪急は、西本が1973年限りで勇退するまでリーグ優勝5回の第一期黄金時代に入った。
幻の信任投票 [編集]
西本は、大毎監督だった1960年にも似たような事件を起こしている。
当時の大毎には前監督の別当薫を慕う「別当派」と呼ばれる選手がおり、九州でのオープン戦では球場に来ないなどして西本に反抗していた。西本はチーム分裂を憂い、ある日のミーティングで「監督として俺を信任するかしないか、投票を行ってくれ」と言い残して部屋を去った。
それから選手だけによる話し合いが行われたが、山内一弘の「俺は野球さえやれればそれでいい。だから監督が別当さんだろうが西本さんだろうがかまわない」という言葉に榎本喜八が同調したことから事態は収拾、結局信任投票は行われなかった。
西本はリーグ優勝によって選手の信頼を勝ち得ることができ、監督を辞任する時には選手たちから時計を贈られたという。
羽田殴打事件 [編集]
1975年後期、阪急西宮球場での対阪急戦、試合中に西本が羽田耕一を殴打した事件である。
この年、近鉄は阪急のルーキー山口高志に苦戦し、この試合も阪急は山口がリリーフで投げていた。西本監督は試合中、自軍の攻撃が始まる前に円陣を組み、「絶対に1球目は打つな。1球目がボールなら、2球目も打つな」という指示を出していた。しかしこの回の先頭打者だった羽田は、初球に来た高めのストレートに手を出して空振り。結局その打席ではサードゴロに打ち取られてしまった。自ら育てた羽田のミスに怒った西本は、試合中にもかかわらず羽田に鉄拳を浴びせた。山口や佐々木恭介によれば、西本の行動を見て阪急ナインは「一瞬、野球を止めた」という。
実は羽田は、試合の円滑な進行のための先頭打者の慣習としてバッターボックスに入っており、西本の指示は聞きようがなかった。当の羽田自身は、引退後に「最初は悔しかったけど、時間が経つにつれてしょうがないと思った。僕は怒られることは多かったが監督に対して絶対的な信頼があったので反抗したことはなかった」と語っている。近鉄はこの年後期優勝を果たした。プレーオフでは阪急に敗れたが、球団創設25年目にして初めて「優勝」という経験を味わうことになった。
なお羽田が円陣に加われなかったことを、後日梨田昌崇から「羽田はあの時監督の指示を聞いてません」と指摘されたが、西本はそれに「しまった!」と感じたものの、羽田に対しての謝罪は行っていない。これは近鉄が球団合併によって消滅する際に出された刊行物の中での西本のインタビュー、羽田と栗橋茂の対談で明かされている。プロ野球ニュースのオフ企画でも「殴った後、『しまった』と思ったが、ここで謝ったら監督の立場がないと思ったので撤回しなかった(笑)」と言ったことがある。
また、この事件に関して一般に西本が「ボールを打つな」「高めを打つな」「高めのストレートに手を出すな」といった指示を出したことになっているが、自著の中で「新聞記者はボールを打つな、高めを打つなという指示だったって記事に書いてたがそうじゃない」と否定している。 「絶対に1球目は打つな」という極めて単純な指示だったからこそ、それが守れなかったと思った西本は、羽田に対して思わず手が出てしまうほど怒った、という。
西本はこの時出した指示に関して「山口には何試合も抑えられていたのでデータを分析すると、1球目、2球目のボール球に手を出してカウントを悪くしてることがわかった。山口が気持ちよく放るストレートはなかなかストライクにならないが、速いから振ってしまう。山口が力を込めて投げるとだいだいボールになるからそういう指示を出した」と語っている。
江夏の21球 [編集]
1979年にヤクルトから移籍したチャーリー・マニエルを擁して球団創設以来の初優勝を果たした直後の大阪球場で行われた広島東洋カープとの日本シリーズ第7戦。1点ビハインドの9回裏1アウト満塁で打者石渡茂にスクイズのサインを送るが、江夏豊投手に見破られ、三塁走者が挟殺。その後石渡も三振に終わり、ゲームセットとなる。この場面は山際淳司がSports Graphic Number創刊号にて「江夏の21球」として活写したことでも知られる。
なお、西本が采配をとった翌年のオールスター第3戦において、1点ビハインドの9回表一死満塁で全セのマウンドに江夏が登板、16球でゲームセットとなり「またも満塁で江夏に抑えられた」と言われた。2死になったとき打順はピッチャーだったが、すでに野手をすべて使ってしまっていたため、南海の投手である山内新一を代打として送り込んだもののあえなく三振に終わる。山内を起用したのは「彼が打撃がうまいという話だったから」と西本はコメントしている。山内は他の南海選手のヘルメットが合わなかったため、近鉄のヘルメットをかぶっていた(後に1991年のオールスターでも、近鉄の野茂英雄がオリックスのヘルメットを被って代打出場した。)。
左投げの二塁手 [編集]
左投げの選手は一般に、捕球して一塁に投げる時、「蟹の横這い」のような形になってしまうため、一塁手を除く内野手に不向きと言われている。左投げでありながらプロ野球で二塁手を経験したのは、西本と大東京の鬼頭数雄、阪急の山田伝の3人だけである。
1951年8月16日、対西鉄戦、試合は毎日が選手を総動員する展開になり、9回の守りに入った時には、使える内野手が、一塁しか守れない三宅宅三だけになった。そこで西本は湯浅禎夫総監督に「三宅を入れましょう。自分は二塁に回ります。二塁は中学時代に経験があります」と進言。湯浅は背に腹は代えられないとして西本を二塁に回したが、守備機会はなかった。
西本が一塁以外を守ったのは、プロではこの時が唯一である。
三原脩との因縁 [編集]
初の日本シリーズで対決して(試合前も含めて)苦杯をなめた三原脩とはその後も縁が続いた。三原が近鉄を率いてチーム初優勝に挑んだ1969年に、阪急の監督としてそれを阻んだのが西本だった。そしてそれから10年後に、西本が近鉄の指揮をとり、三原のなしとげられなかった近鉄の初優勝が実現した。また、上記の通り3チームで胴上げ監督になっているのは西本と三原だけである。
【2010/11/09 23:53 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
中畑清の北京踊り
中畑 清(なかはた きよし、1954年1月6日 - )は、福島県西白河郡矢吹町出身の元プロ野球選手(内野手)。愛称は「ヤッターマン」、「絶好調男」。
現在は日本テレビ野球解説者及びスポーツニッポン新聞社専属評論家。
目次 [非表示]
1 来歴
1.1 現役時代
1.2 引退後
1.3 国政選挙への挑戦
2 プレースタイル
3 人物像
4 詳細情報
4.1 年度別打撃成績
4.2 背番号
4.3 タイトル・記録
5 芸能活動
5.1 テレビ・ラジオ
5.2 歌
5.3 CM
5.4 ゲーム
6 脚注
7 関連項目
8 外部リンク
来歴 [編集]

現役時代 [編集]
福島県の安積商業高校から駒澤大学に進学。東都大学リーグ通算82試合出場、300打数92安打、打率.307、10本塁打、51打点。1973年秋季リーグ最高殊勲選手。ベストナイン4度受賞。大学時代は殆どがデーゲームの為、常時ではないが黒いサングラスがトレードマークで、当時はサングラスを着用する選手もプロ・アマ問わず珍しく、スポーツ用のゴーグルも無かった時代で珍しかった。
1976年、ドラフト3位で読売ジャイアンツに入団。巨人1位指名が有力視され駒澤大学の寮に報道陣が殺到したが、1位指名は銚子商業の篠塚利夫になり「高卒の人間に先に指名された」とがっかりした反面、ファイトが増したという。駒大野球部同期の平田薫、二宮至とともに巨人に入団したことから『駒澤三羽ガラス』と呼ばれた。入団後3年間は1軍での出番に恵まれなかった。
まだ若くあまり注目もされていなかった頃、当時の長嶋茂雄監督から「どうだキヨシ、調子は?」と聞かれた際、「まあまあです」と答えた。これを聞いていた土井正三コーチに「監督に調子を聞かれたら嘘でもいいから必ず絶好調と答えろ」と言われて(板東英二曰く、「何を聞かれても」)「絶好調!」と答えるようになった。この当時「オレは多摩川のハナクソだよ」と自嘲していたという。
また、当時広島東洋カープの抑えだった江夏豊と対戦。中畑曰く、江夏はマウンドに上ると新しいボールを毛嫌いし、毎回ボールに土をすりこんでいたという。そこで、当時打撃コーチであった国松彰から「ボールを替えてもらえ」との指示が中畑に飛んだ。中畑は渋々、ボールを1球投げたところでボールの交換を要求した。捕手も嫌々ながら新しいボールと交換して江夏にボールを渡した。すると江夏が中畑を凝視しながらマウンドから降り、中畑の手前2mほどまで近づいて、「おい若造、ボール替えてくれ? 10年早いんや!!!」と凄まれ、思わず「すいません!」と謝ったという。中畑はこの打席で頭の高さほどのボール球を振って三振し、即2軍落ちになった。この後の江夏との対戦はまったく打てなかったという。
中畑の転機は3年目オフの1978年の日米野球での活躍である。シンシナティ・レッズが来日し、日米野球の第1戦で巨人と対戦する。この試合で中畑は高田繁に変わって途中出場し、レッズのクローザーのマリオ・ソトから2ランホームランを放った。そして、1979年に衰えが見えてきた高田に代わって三塁手のレギュラーを得た。この年新人王の資格もあったがシーズン終盤で骨折、新人王はならなかった。そして翌1980年に初の規定打席に到達した。
同年の秋、監督の長嶋茂雄の辞任、王貞治の引退、そしてドラフト会議で中畑と同じ三塁のポジションの原辰徳の入団の出来事が起きた。ここでポジションの問題が発生するが、新監督の藤田元司ら首脳陣は当初中畑三塁・原二塁の構想を持っていた(ちなみに遊撃手は元々レギュラーである河埜和正、そして一塁には以前から王の後継人ともくされていた山本功児)。しかし、1981年になると中畑がシーズン途中でケガで戦線離脱し、その間に原が三塁へ、二塁に篠塚利夫が入り、高打率を記録した。(その間一塁には長年大洋の顔として2000本安打を記録をし、巨人にこの年移籍となった(後に自身の現役ラストイヤーとなった)松原誠が守り、ベテランの味を発揮した。)そして中畑は戦線復帰すると一塁手に転向。中畑の怪我のおかげでポジション問題が解決されたと評された。この年巨人は1973年以来の日本一を奪回し中畑も.322、16本塁打66打点と活躍した。
1983年、当時守備走塁コーチだった末次利光が最終戦で3割前後の選手の打率を1打席ごとに電卓で計算し、3割に乗ったところで交代させたため、打率は3割ジャストであった。この点を指摘された中畑は「3割だけは契約更改の席の印象が変わるので勘弁してほしい。その代わり、もし自分がタイトル争いをしたら絶対休まない」と返答した。実際に中畑は駒澤大学時代に最終戦まで出場して首位打者を逃した経験があったが、プロではその機会は訪れなかった[1]。
1985年に結成された労働組合・日本プロ野球選手会の初代会長に就任。同年オフ、高校野球史上最高のスラッガーとなった同じ内野手の清原和博が巨人入りを希望していたため、定位置を奪われる危機感を持った。清原は西武ライオンズに入団したが、加藤英司が近鉄バファローズから移籍。ポジションを争う形になったものの、最終的には加藤を代打に追いやった(加藤は1986年オフ自由契約)。
1989年に三塁再コンバートが試みられたが、故障し、引退を表明。リーグ優勝を決める試合(横浜スタジアム)で二塁打を放った際のことを「自分が日本の球場で最初にウェーブを起こした」と発言している。その後の日本シリーズ第7戦(藤井寺球場)では、近鉄・吉井理人から代打本塁打(この後、もう1打席回ったが、最終打席は三塁フライに終わった)。この試合を最後に、現役を引退した。
引退後 [編集]
引退後は日本テレビ・スポーツニッポン野球解説者を経て、1993年から第二期長嶋監督の巨人で打撃コーチに就任。
1993年はチームがリーグ最低打率に終わり、コーチとしての指導力を問われた。また、駒田徳広の横浜へのFA移籍にあたり中畑との確執が噂された事や、中畑よりも打者としての実績が格上である落合博満がFAで入団したことにより存在感を出すことができず、コーチとしての評価は高くないまま終わった。それでも1994年には一塁ベースコーチを担当し、ムードメーカーの役割に徹して日本一に貢献した。同年オフに退団。その後は再び日本テレビ・スポーツニッポン野球解説者として現在に至る。
2004年のアテネオリンピック野球日本代表のヘッドコーチ(監督の長嶋茂雄が病床に伏してからはチームの指揮を執る。監督代行ではなくあくまでヘッドコーチであり、講演活動で監督代行の肩書きが欲しかったと発言している。)を務め、本大会では、国際オリンピック委員会の規定により長嶋監督の登録が認められなかったため監督に就任、銅メダルを獲得。同オフ、巨人から非公式に助監督を要請されたが、これを断っている。
毎年、福岡県北九州市の九州ゴルフクラブにて、「元気だぜ!」というタイトルのプロアマゴルフコンペを行っている。
国政選挙への挑戦 [編集]
2010年5月9日には、たちあがれ日本が同年7月に執行予定の第22回参議院議員通常選挙の立候補者として擁立する方針であると報じられ[2]、5月11日に中畑自身が立ち上がれ日本の代表である平沼赳夫、共同代表の与謝野馨が同席し、正式に出馬表明記者会見を行った[3]。7月11日の当開票の結果、111,597票を獲得し同党内で2位になるも1人しか当選しなかったため落選。
プレースタイル [編集]

レギュラー時代は主に6番・7番打者をつとめ、積極的な打撃で中軸打者をホームへ帰した。典型的な早打ちスタイルの中距離打者だったが、原が4番に定着する過渡期の1984年には自己最高の31本塁打を記録している。「絶好調!」が口癖のムードメーカーで、その明るい性格からファンに人気があり、ヤッターマンの愛称で親しまれた。
守備も巧みであり、一塁手で1982年から1988年まで7年連続でゴールデングラブ賞を受賞した。その頃、江川卓の登板する試合に、よく守備で足を引っ張っていたので、江川から「150キロの牽制球」を投げられた。ただし、実際に守備については下手だったわけではなく、「性格的に三塁手向きのためか、本来二塁手の守備範囲の打球にまで突っ込む判断力の悪さがあるが、それを除けば、ゴロをとる技術に関しては一塁手としては(現役当時で)一番上手い」という評価すらあった。藤田監督は中畑がサード向き、原はファースト向きの性格でありながら原をサードに、中畑をファーストにしたのは最大の失敗だったと語っている[4]。
人物像 [編集]

プレーについて、「高い入場料を払ってきてくれるファンのために」と発言した。
現役当時に巷で流行だったもみ上げをまっすぐにカットするテクノカット(YMO(イエロー・マジック・オーケストラ)に代表される)を中畑もやっていた。
TOKIOの松岡昌宏が中畑の大ファンであり、それを知った時には家族で大喜びしたと言う。[要出典]
演歌を大変好み、テレビ番組のカラオケ大会ではよく山本譲二や北島三郎などの曲を歌う。また吉幾三の作詞作曲の『十和田丸』でデビューし演歌のシングルを2枚リリースしている。
1953年(昭和28年)度生まれのプロ野球選手(梨田昌孝、落合博満、真弓明信、吹石徳一など)による親睦会「二八会」(にっぱちかい)の会長を務めている[5]。
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川淵三郎
川淵 三郎(かわぶち さぶろう、1936年12月3日 - )は、日本の元サッカー選手、元日本代表監督、Jリーグ初代チェアマンを経て第10代日本サッカー協会会長を務めた。現在は日本サッカー協会名誉会長である。公式な愛称は「キャプテン」、渾名は「サブ」。家族は妻の康子と2女の4人家族。 平成21年秋の叙勲において旭日重光章を受章した。
目次 [非表示]
1 経歴
2 人物・エピソード
3 川淵キャプテン
4 VS 渡辺恒雄
4.1 発端
4.2 亀裂
4.3 移転
4.4 呼称
4.5 泥沼
4.6 後日譚
5 川淵批判
5.1 合併・吸収
5.2 バランスシート
5.3 ジーコ監督
5.4 オシム騒動
5.5 解任デモ
6 個人成績
7 代表歴
8 監督成績
9 その他
10 外部リンク
11 脚注
経歴 [編集]


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1936年12月3日 大阪府泉北郡高石町(現在の高石市)出身、父川淵真一、母淑子の3男として出生。
1943年 大阪府高石町立高石小学校入学吉岡たすくの指導を受ける。
1949年 大阪府高石町立高石中学校入学、野球部に所属。
1952年 大阪府立三国丘高等学校入学、同年7月同校サッカー部に入部。1955年同校卒業
1957年 二浪の後早稲田大学第二商学部に進学。早稲田大学ア式蹴球部でプレー。関東大学リーグ優勝。
1958年 日本代表に初選出。関東大学リーグ優勝。
1959年 ローマ五輪アジア予選出場。
1960年 第7回チリW杯アジア予選出場。関東大学リーグ優勝。
1961年 3月、早稲田大学卒業後、古河電気工業入社。4月、横浜電線製作所勤務。同社サッカー部でプレー。
1962年 インドネシア・ジャカルタで開催された第4回アジア競技大会に出場。12月、結婚。
1964年 東京オリンピック出場、対アルゼンチン戦でゴールを挙げる。
1966年 長女、純子誕生。
1968年 次女、英子誕生。
1970年 現役引退(日本代表通算68試合、18得点)。古河電気工業サッカー部コーチ就任。
1972年 古河電気工業サッカー部監督就任。
1975年 同部監督退任。
1976年 日本サッカーリーグ常任運営委員就任。10月、伸銅事業部第1販売部課長。
1979年 同委員退任。
1980年6月、LA五輪強化部長に就任。8月、系列会社「谷商株式会社」の常務取締役に出向。11月、日本代表監督代行就任。
1981年 日本代表監督退任。
1982年6月、古河電気工業・名古屋支店金属営業部長。
1984年4月、日本サッカー協会強化部長退任。
1988年6月、古河産業へ出向、取締役伸銅品部長。8月、JSL総務主事就任。10月、日本サッカー協会理事就任。
1989年6月2日、JFA・プロリーグ委員会委員長就任。
1990年8月、プロリーグ検討委員会委員長就任。
1991年3月、強化委員長、プロリーグ設立準備室長就任。11月、社団法人日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)設立、初代チェアマン就任。11月、30年勤続した古河電気工業退社。
1993年5月、Jリーグ開幕、国立競技場にて開幕宣言。
1994年5月、日本サッカー協会副会長就任。6月、W杯日本招致委員会実行副委員就任。10月、強化委員長退任。
1995年 初孫誕生。
1996年7月、2002年W杯開催準備委員会実行副委員長就任。二人目の孫誕生。
1997年12月、2002年FIFAW杯日本組織委員会理事就任。
2001年 三人目の孫誕生。
2002年7月、Jリーグチェアマン退任。後、日本サッカー協会会長(キャプテン)に就任。
2008年会長を3期6年務め、任期満了後に名誉会長に就任。
2010年9月、日本サッカーミュージアム館長に就任。任期は2年。
人物・エピソード [編集]

小中学生時代は野球に打ち込み、それまでのサッカー経験は一度だけで感想は「汚いし痛いスポーツ」。高校一年生の1学期、同級生に「夏休みに四国で大会があるからサッカー部に入ったら高松に行ける」と誘われ入部、理由は「四国に行きたかった」だけであった。四国行きも叶って川淵少年は退部を申し出るも先輩部員から「やめないで」と涙で懇願され慰留。
上記の通り野球ファンでもあり、マスコミからプロ野球へのコメントを求められる事もある。2004年に起こったプロ野球再編問題の際に、Jリーグ会長の立場として当時プロ野球界のトップに当たるコミッショナーを務めていた根來泰周を批判した。
早稲田大学ア式蹴球部に所属し、日本代表として東南アジア方面に同行。当時イギリス領だった香港のクリケットのカントリークラブにある緑の芝生に驚き、さらにドイツ・デュースブルクスポーツシューレの環境を目の当たりにし彼我の差に愕然となる。日本サッカー協会が西ドイツサッカー協会にコーチの派遣を要請、デットマール・クラマーがコーチに就き、基本からの単調な反復練習に不満を感じるものの指導通りに出来ない事を自覚し焦る。
二宮寛日本監督解任と次期監督の座を巡って起きた内紛に体よく使われた形となった川淵は神経性胃炎を起し、これを発端にサッカーとは距離を置き、たまに静岡放送(SBS)で試合解説をするくらいで名古屋支店の仕事に専念。この頃ゴルフ三昧の日々を送り、メキメキ上達したという。
「名古屋支店に6年勤務したから、次は本社の営業部長あたりかな?」と漫然と考えていた川淵だったが、関連会社への出向人事に「これでは年齢的に本社に戻れない上に、良くて常務止まり」と奈落の底に落とされ顔面蒼白、妻からは心配され会社組織に幻滅。名古屋から北鎌倉に引越し、斜めに傾いだ借家に住み、朝5時半起床、自転車と電車とバスを乗り継ぎ、会社がある日本橋まで通勤。
日本サッカーリーグ(JSL)総務主事になった川淵は、水面下ではプロ化の動きがあったもののサッカーに対して投げやりで、当時の場末感漂うJSLを見て幻滅しており、内心プロ化には消極的な立場であった。何をやろうにも予算が無く、自らサンドイッチマンとなり広報活動したり、関東圏にあるサッカースクールやクラブ、学校の指導者宛に手紙による招待作戦や、サッカー好きでお笑いタレントの明石家さんまに頼み込んで集客ポスター[1]を作ったりしていた。
「無駄に長いスピーチはやめておこう」とJリーグ開幕宣言の時間を30秒と決めて「スポーツを愛する多くの皆様に支えられまして、Jリーグは今日、ここに大きな夢の実現に向けてその第一歩を踏み出します。1993年5月15日、Jリーグの開会を宣言します。Jリーグチェアマン 川淵三郎」と纏め、国立競技場に集まった大観衆の中で宣言するが、緊張していて目が泳ぎ、太字部分を「向かって」と読み、直後の段取りも間違えてしまう。
カザフスタンとドローに終わった加茂周監督解任を発端とする一連の最中に、ジェフユナイテッド市原の親会社であるJR東日本のトップが「何かあったら、Jリーグやめちゃう」と発言、「やめてみろ」とやり返すも、ジェフのスタッフが「川淵さんのあの発言はよろしくない」と諌められ、内部からこのような動きが出たことについて協会会長の長沼健と共に心身を疲弊させていた。この騒動の中、川淵の自宅には嫌がらせや中傷の電話が続き、妻が精神的に参っていた上に、自身も予選の重圧と胆嚢摘出手術で体は悲鳴をあげ、マレーシアに同行出来なかった川淵は自宅でTV観戦。岡野雅行のVゴールでサッカー日本代表W杯初出場、家族4人抱き合って喜んだ。
Jリーグのシーズンオフに放送されたテレビの特別番組において俗に「珍プレー」と呼ばれるような選手や審判のミス等を集め、珍奇に編集し視聴者の笑いを誘う企画内容があり、この放送を見た川淵は「一生懸命プレーする選手達を笑いものにするとはけしからん!」と激怒して、この件以降そのようなコンセプトの番組へは映像使用を許可しない方針を取った。
相手や状況に構わず舌鋒鋭く、売り言葉に買い言葉になってしまう事から後述する項目において、ワンマンとも取れるその言動で「独裁者」と渾名される。さらに場を問わず感情の起伏を露にする性格で、横浜フリューゲルス存続の危機でフリューゲルスサポーターから「サポーターを作ったのは川淵さんなのに、何故サポーターからチームを取り上げるのか」と窮状を訴えるサポーター達との話し合いの後に落涙した。韓国とワールドカップの共催が決まった会見では「私の顔を見ていただければわかる」と憮然な態度だった。2006年ドイツワールドカップ、対ブラジル戦での惨敗に動揺、落胆し、直後の記者会見で迂闊に次期代表監督の名を述べた。また高円宮憲仁親王急逝、当時日本代表監督であったイビチャ・オシムが急病で倒れた時は目を赤くしていた。
三人の孫を連れ東京ディズニーランドで2時間近く並んで「空飛ぶダンボ」に乗る。
川淵キャプテン [編集]

日本サッカー協会会長に就任した後も「親しみやすい存在、開かれたサッカー協会を目指したい」という川淵の意向と、自身の談話で「協会の“会長”という肩書きは重く感じるから」「選手と対面した際、(肩書きが会長だと)選手が固くなってしまうから」という理由から川淵が“会長”に代わる愛称をマスコミに向けて募集、「キャプテン」の呼称が採用される。採用理由として「舵取り役といったイメージで選んだ」と述べる。[2]以降、殆どの媒体や公式な行事、文書で「キャプテン」と表記、呼称するようになった。尚、NHKでは「キャプテン」を使用せず、会長在任中一貫して「川淵会長」と表記していた。
後、2008年7月に川淵は会長(キャプテン)を退任して名誉会長となったが、後任の犬飼基昭は「キャプテン」の肩書を引き継がず「会長」の肩書を使用している。この点について川淵は「キャプテンの呼び方はオレ1代限りだよ」と語っている[3]。
ちなみに「キャプテン」の本義は船長・機長・指揮官、階級では大尉・警部である。
VS 渡辺恒雄 [編集]


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発端 [編集]
協会としてはプロサッカーリーグ設立に際して、ドイツ・ブンデスリーガの規約を下敷きとしFIFAの規定に沿った規約を作成していった結果、リーグ権限がチェアマンに集まる基本設計となった。Jリーグにおいてオーナー会議というものは存在せず、リーグ運営の決め事は各リーグの代表(社長)によって組織される実行委員会で話し合い、理事会[4]で承認するシステムとなり、協会が掲げた「企業スポーツからの脱却」「地域密着」といった「理念」が衝突の火種となる。
Jリーグ開幕当初サッカーブームが沸騰。社会現象にある中、高年俸のスター選手を抱え、破竹の勢いで勝ちまくっていた「読売ヴェルディ」(ヴェルディ川崎、現・東京ヴェルディ)だったが、オーナーの意向が反映されない度に、ヴェルディのJリーグ撤退、果ては新リーグ構想まで仄めかし揺さぶりをかけた読売新聞社長渡邉恒雄(当時ヴェルディ川崎オーナー)を、当時Jリーグチェアマンであった川淵は「どうぞ、ご自由に」と一蹴。そもそもFIFAは一国一協会一リーグ一代表の原則をとっており、仮に渡邊が日本サッカー協会の支配下に無い「新日本サッカーリーグ」を発足させ「サッカー新日本代表」[5]を選出しようとFIFA傘下の国際試合に出られない選手を抱える事になる。この一件で渡邊がサッカーというスポーツそのものより、超人気名門クラブのオーナーであろうと権限が無い事を理由に立腹してるだけと看做されてしまう。
ただこの渡邊の「新リーグ構想」も強ち荒唐無稽の話ではなく、プロリーグ参加意思のアンケートを取った際、読売は入場料収入・放送権料合わせて1億8000円と予想していたが、Jリーグブームに乗った勢いは凄まじく、Jリーグトータルでの放送権料が初年度10億円超、2年目には20億円超となり、JFAは莫大な収益を上げ1クラブの平均収入が約25億円となった。多くの代表選手と高給のスター選手を抱えていた読売は全国区で人気のあった読売巨人軍を新聞の拡販に使ったのと同じ方法で、ヴェルディの試合チケットを新聞の拡販に使い部数を伸ばし、アウェーでも地方でも大きな集客力を見せ、[6]地上波が放送するJリーグの試合は軒並み高視聴率を取り、一時期その半分の試合中継をヴェルディ戦が占め、Jリーグ3年目でヴェルディの年間収入は55億円、その内30億円を選手の年俸に充てていた。しかし収益をJFAに一度通してから各クラブに分配、さらには最高300億円の売上げを出すに至ったマーチャンダイジングまで握るというシステムが、後述の氏家斉一郎の発言に見られるように読売を含めた他のチームから不満が出たのも必然だった。
亀裂 [編集]
渡邊はこのJリーグのシステムに苦言を露にし、理念を「空疎」と言い捨て、事毎に理念を掲げるチェアマンの川淵を「独裁者」と呼ぶ。一方の川淵は1993年8月号「月刊プレイボーイ」誌上のインタビューにおいて「ナベツネさんとは開幕の時も仲良く喋った、個人的には好き。僭越ながら自分と似ている部分があると思う」と答えた。三浦知良・設楽りさ子夫妻の結婚式(1993年8月)でも、披露宴会場の入り口で結婚式の仲人を務めていた渡邊と遭遇し「おー!どうもどうもチェアマン」と笑顔と握手で出迎えられる。しかし設楽りさ子の父が渡邊に仲人を依頼した時は「あの川淵はすごい独裁者だ、チャウシェスクだ、ヒトラーだ、とんでもねえ野郎だ」と罵詈雑言を並べていた。
移転 [編集]
その後も確執は燻り続ける。「スタジアム建設促進とプロサッカーチームを調布に誘致する会」が、1993年11月にヴェルディ川崎と東京ガス(現・FC東京)に対し「武蔵野の森総合スポーツ施設」への移転を要請したのに対し、当時のヴェルディ社長が「東京を本拠地にするのが私達の夢」とコメント、渡邊も「12月中にも決めたい」と言い出し、翌日には東京ガスが誘致から撤退する意向を仄めかせ、移転問題の状況が迷走。Jリーグ規約では「ホームタウンの変更は原則禁止」とされており[7]、止む無き事由が生じた場合は「理由を記載した書面を変更日より1年以上前に提出しJリーグ理事会に申請し、承認を得る事」が必要で[8]、このヴェルディの東京移転希望は唐突なものであり、手続き上も問題が多すぎた。
川淵は穏便に済ませようとしたが、一部スポーツ誌が「読売に屈したJリーグ」「川淵チェアマン、渡邊の軍門に」と書きたてた。この移転問題は、その後調布市からは「横取りするような形になるのは如何なものか」といった意見が出て、川崎市からは「等々力陸上競技場を100億円かけて改修したのにどうしてくれるんだ」と引き止められたが、サポーターから「出て行きたかったら出ていけ」という意見も出始めて、結果ヴェルディは宙に浮いた形になる。
呼称 [編集]
この頃Jリーグ事務局では、メディアにおけるチーム名の呼称を「地域名+愛称」で統一する事を通達し、各媒体も全面的に協力してくれる運びとなったが、読売傘下の媒体は開幕から1年間「読売ヴェルディ」で通した。この呼称問題が、上記の移転問題と並行し、企業名を付け続けているヴェルディにより川淵のメンツが潰れる形となり「名称を改めないのであれば移転も認めない」と釘を刺し「ヴェルディ川崎」と改められた。
また渡邊は「チーム名に出資企業の名が入っていないと、赤字補填のお金が広告宣伝費として損金扱いされない」と述べていたが、実際には国税庁はユニフォームのどこでもいいから出資企業の証となるものを入れれば広告宣伝費として認めている。これを知っていたJリーグは、企業色を全く前面に出そうとしなかったトヨタ自動車(名古屋グランパスエイトの親会社)と住友金属工業(鹿島アントラーズの親会社)に「小さくて構わないから、何か自社の証になるものをユニフォームに入れてくれ」とお願いするという、あべこべの構図になっていた。
ただ「企業名がチーム名に入り、特定の企業の資本で運営され、且つ地域密着を実現したチーム」としては、日本でも過去に新日鉄釜石ラグビー部(現・釜石シーウェイブス)の好例がある。また海外でもドイツ・ブンデスリーガのバイエル・レバークーゼン[9]、オランダ・エールディヴィジのPSVアイントホーフェン[10]などの例が見られる。
Jリーグ規約に則ってチーム名から企業名を外して市町村の名前を付けるのであれば、本来吹田市の万博記念競技場を本拠地とするガンバ大阪は「ガンバ吹田」、調布市の味の素スタジアムを本拠地とするFC東京は「FC調布」になるのが理想である。また豊田スタジアムを本拠地の一つとする名古屋グランパスエイトは「豊田グランパスエイト」でも良いことになる[11]。 さらに厳密に言えば、佐藤工業と全日本空輸の頭文字が入ったAS横浜フリューゲルス(横浜マリノスに合併吸収されて横浜F・マリノスとなる)、JR東日本と古河電気工業の頭文字(JEF)が入ったジェフユナイテッド市原(現・ジェフユナイテッド市原・千葉)は規約から外れている事になる。浦和レッドダイヤモンズについては、企業名こそないものの、三菱グループを意味する社章がそのままチームの愛称ならびにチームマークになっているため、これもまた一例といえる。この事から「地域密着」の解釈や扱いがいくつかのクラブにおいてばらつきが見られ、必ずしも統一されたものではない。
泥沼 [編集]
川淵は『週刊現代』の記者の取材を受けた際に渡邊を徹底的に批判。送られてきたゲラ刷りを見た川淵は自分が喋ったにも関わらず、その激烈な内容に驚愕し、修正した文章を『週刊現代』に送り返したが、同記事は結局1994年1月15・22日発売の『週刊現代』誌上で「初春に吠える!BIGインタビュー2”Jリーグを読売の思い通りにさせない”」の見出しで掲載された。この記事が載る事はヴェルディ副社長に事前に通達しており、渡邊は「僕は見ないよ」と言っていたが、渡邊は「記事を読んで烈火の如く怒った」という。この記事が発端となり、読売が内容証明郵便を川淵の”自宅”に送付。『週刊現代』側も内容証明郵便を読売宛てに送る。
そして1994年12月に東京・芝の東京プリンスホテルで行われたヴェルディの優勝記念パーティで乾杯の挨拶に立った渡邊は「市町村第一主義も結構だが、スポーツは企業がサポートして育っていく。独裁者が理念ばかり掲げてばかりではスポーツは育たない。揉め事が起こっても裁判所に訴えられないJリーグのバカな規約は憲法違反で司法を否定している」と糾弾。その場に居合わせた木之本興三(当時Jリーグ専務理事)も「この発言は理事会で取り上げ、ヴェルディより謝罪が無い場合、Jリーグからの追放も辞さない」と徹底抗戦の構えを取る。3日後、読売も氏家斉一郎を矢面に立てて「民主主義国家では放送権はクラブにある。川淵君は共産主義の論法を振りかざしてJリーグを私物化しており各クラブは不満を抱えている」と発言。その後ヴェルディ副社長が「渡邊の発言は個人的見解でクラブとは無関係」とし、当時、実兄を失って落ち込んでいた川淵は、これ以上泥沼化するのは得策ではないと考え、「どうこうするつもり気は無い」と述べJリーグにおける川淵と渡邊の確執は終結する形となる。
後日譚 [編集]
間もなく、東京・日比谷の日本プレスセンタービルで行われた出版記念パーティで、川淵は渡邊と同じ場にバッタリ居合わせることになり、渡邊が挨拶で「どこかのワンマンと違い、野球界は川島広守(当時セントラル・リーグ会長)さんが頑張っておられる」と発言。川淵も会場のスタッフに挨拶を促され一旦拒否するも、司会者が「川淵さんがどうしても挨拶したがってます」と場の雰囲気に強引に乗せられた形となった川淵は「将来、本を書く時は、内容も題名も決まってます。それは『独裁者への道』です」と反論を兼ねた挨拶をして満座は爆笑。但し、渡邊は記者に対して「聞いていなかった」と返答した。
当の川淵は、この渡邊との確執について「僕が喋ったら記事にしてくれる。並みの相手ではこうはならなかっただろう。結果的に注目を集め、ひいてはJリーグの認知度を上げる一因になるのではと、途中からラッキーと思うようになった」と皮算用で考えていた。
1998年11月、ヴェルディの出資企業から読売新聞が撤退。これにより両者の直接対決は無くなる。
川淵批判 [編集]


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川淵の運営手腕は独裁的であるとの批判が週刊誌などでなされることがある。内容としては、代表監督や協会幹部の人事に関する問題などがある。木之本は、『週刊ポスト』2007年9月14日号誌上に「独裁者川淵に怒りの引退勧告」のタイトルで川淵を批判する文章を掲載した。協会の運営が川淵の独断であること、代表監督選考が独裁的であること、自分以外の功労者の切捨てがあること、などを主張している。また「渡邊vs川淵」の構図がマスコミによって作られ扇動、「ポスト独裁者」として担ぎ上げられた面も多々ある。
「プロサッカーリーグ設立」に対し当時サッカーに関わる人間や企業など、環境面においてプロリーグ設立の準備が整っていたとは言い難く、急激な変化に足並みが揃わなかった面も見られる。JFAにもそれは当て嵌まり、結果として発足間も無いJリーグの運営は暗中模索となり、協会を統括するチェアマン権限が「独裁的」となるのも当然の帰結でもあり、現在でも孕んでいる問題である。
合併・吸収 [編集]
川淵のチェアマン在籍時における最大の汚点として、横浜フリューゲルス(以下、横浜F)と横浜マリノスの合併(事実上の消滅)が挙げられる。バブルの残滓も無くなりJリーグの人気も下降、未曾有の不景気の中、赤字を出し続けるスポーツクラブは母体会社にとってコスト面において重荷となり、整理対象となる可能性は高かった。その中横浜Fの問題は水面下では既に決まっていた事案で、表面化した時には手遅れの状態だった。横浜Fサポーターには正に寝耳に水で、やり場の無い憤りを抱えたサポーターたちは、川淵チェアマンと直談判という異例の行動に出る。
通常ならば経営破綻や累積赤字を続けるクラブにはトップリーグから下部リーグに降格させる罰則を科され、運営体制を再編成した資料を協会に提出するのが常道である。突然トップリーグのクラブチームが消滅するというのは殆ど例が無い。この騒動は横浜マリノスにフリューゲルスのFを入れた「横浜F・マリノス」と名称変更し、全日空から年間数億円の資金をマリノスに拠出する事で事態は収拾する。実際のところ、横浜マリノスの親会社である日産自動車も当時経営難に陥っており、この合併には「運営資金を1チームに集約することで共倒れを防ぐ」側面もあった。
川淵にとってもこの合併劇は「チェアマン在籍時、最大の危機だった」と回想しており、チェアマン権限を無理に行使して存続させると日産・全日空両社の社長の顔を潰す事になり、また人気低迷当時、横浜Fを発端にしたクラブの連鎖消滅という最悪のシナリオの可能性もあった。川淵は「どうして存続できなかったのか」「両社の社長に会っていればもしかしたら」と訊ねられると未だに落ち込むという。
バランスシート [編集]
川淵はJリーグチェアマン在任中に「クラブごとの収支を公表する」と各クラブの社長と約束していた。ただ約束を取り付けるまではクラブチームは出資企業からの援助額が世間に晒される上「自由に商売させない上に、懐具合まで探るのか」と猛反発を喰らうが、上述の横浜Fの合併が発端で諮問委員会が作られ「5年後には全ての数字をオープンにする」と全実行委員に了承させる事になる。最終的に2005年からJリーグのチーム別経営情報の公開が行われている。
ジーコ監督 [編集]
2002年にフィリップ・トルシエが退任した後のサッカー日本代表監督選考でブルーノ・メツ、アーセン・ベンゲルなどの候補が挙げられていた(ただし、両監督ともクラブとの契約があり、実現性は低かった)が、候補の中にジーコの名前は無かった。川淵は2002年W杯におけるジーコの論旨に刮目していて「ジーコはどうだろう? 一度連絡してみよう」と提案しアポイントしたところジーコ本人も乗り気でそのまま代表監督に就任する。ただ、この鶴の一言により理事達が阿諛追従したのか、川淵がごり押ししたのかは不明ではあるものの、2006W杯での結果も含め、批判の俎上に挙げられる。
オシム騒動 [編集]
1次リーグ敗退という結果でワールドカップドイツ大会から選手達が帰国した2006年6月24日の記者会見上において、川淵はジェフユナイテッド市原・千葉監督(当時)イビチャ・オシムがジーコ日本代表監督の後任候補の一人として交渉中であることをマスコミの集まる中で示唆する発言を行った。尚、この記者会見の裏で田嶋幸三(当時・技術委員長)から「世紀の失言」と釘を刺される。この事にジェフ側は交渉の事実を否定したが、翌日になってジェフ社長淀川隆博が交渉の事実を認めた。なし崩し的に監督を横取りされたような形となった一部ジェフサポーターがTVインタビューにて不満を見せ、また大きな物議を醸す。結果、マスコミの関心は「ジーコ・川淵体制の総括」よりもオシム新体制へと集まり、サッカー専門誌などでは協会に対して事の経緯と顛末に苦言を呈する記事が載った。
しかし、このオシム騒動には伏線があり、ジーコ監督が地区予選を突破、所用で協会に立ち寄った淀川隆博は大喜び。淀川のあまりのはしゃぎ様に川淵が感想を訊ねると「もし2連敗でもしたら、うちのオシムを寄越せと言うと思った」と言い、川淵も「ようわかっとるじゃないか」と二人で大笑いになる。


川淵の会長解任を求めるデモの様子。 2006年8月9日
解任デモ [編集]
FIFAワールドカップ・ドイツ大会の本大会後から主にインターネット上で川淵会長の解任を求める声が活発になり、2006年8月9日に国立競技場で開催された国際親善試合トリニダード・トバゴ戦の試合前後にはとうとう400-500人前後の人々が川淵会長の解任を求めるデモ行進にまで発展した。
【2010/11/07 20:17 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
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