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西本 幸雄(にしもと ゆきお、1920年4月25日 - )は、和歌山県出身の元プロ野球選手・監督、元野球解説者。
目次 [非表示] 1 経歴 2 エピソード 2.1 三原監督スッポカシ事件 2.2 大毎監督辞任 2.3 監督信任投票事件 2.4 幻の信任投票 2.5 羽田殴打事件 2.6 江夏の21球 2.7 左投げの二塁手 2.8 三原脩との因縁 3 タイトル・表彰 4 通算成績 5 監督としてのチーム成績 6 監督通算成績 7 背番号 8 出演 8.1 TV 8.2 CM 9 脚注 10 関連項目 経歴 [編集] 父親は日本勧業銀行(後の第一勧業銀行、現みずほ銀行)に勤務する銀行員であり、裕福な家庭に育つ。1933年に野球の名門校だった旧制県立和歌山中学校(現・和歌山県立桐蔭高等学校)に進学する。当時は野球部に入れば「勉学をあきらめる覚悟が必要」だったため入部をあきらめ、3年生の時にはラグビー部に所属していた[1]。しかし、4年生の秋、5年生7人が引退して5人だけになった野球部に入部し、二塁手、一塁手を務め、時にはリリーフ投手としてマウンドにも立った[2]。1937年夏の甲子園の紀和大会予選決勝では海草中学校(現・和歌山県立向陽高等学校)と対戦。当時3年生の嶋清一の前に敗れて甲子園出場はならなかった[3]。1938年に旧制立教大学に進学。当時の立教大学野球部には監督がおらず、のちには実質的な監督役を務めている。文部省の命令でリーグ戦が中止となった1943年5月には自ら申し入れて明治大学との対外試合をおこなった[4]。学徒出陣により同年秋に応召。中国で終戦を迎え、復員後は八幡製鉄-全京都-別府星野組と社会人チームを渡り歩く。星野組時代の1949年には監督・一塁手・3番打者として都市対抗野球に出場、優勝に輝いた。 1950年、毎日オリオンズに入団。プロ入り時には既に30歳であり、選手としてのピークは過ぎていたが、1番(または2番)・一塁手の定位置を確保し、毎日のパ・リーグ優勝と日本一(日本シリーズ優勝)に貢献した。1952年には主将を、1954年には兼任コーチを務めている。 1955年限りで現役を引退した後、1956年から1958年まで毎日の2軍監督を努める。1959年には1軍コーチに昇格し、1960年に前年限りで退任した別当薫に代わって監督に就任。1年目にしてチームをリーグ優勝に導いたが、日本シリーズ第2戦での戦術(1死満塁のチャンスにスクイズプレイを仕掛けたがダブルプレー)を巡り永田雅一オーナーと対立し、責任を取る形で辞任した(辞任の経緯については後述)。 その後日本短波放送解説者を1年間務め、1962年、阪急ブレーブスにコーチとして招かれ、翌年監督に就任。1967年初優勝。1973年までの11年間で5度のリーグ優勝に導き、常勝球団へと育て上げた。同年限りで勇退。1974年より近鉄バファローズ監督。ここでも1979年に球団初のリーグ優勝を果たした(2シーズン制時代の1975年に後期優勝)。1981年勇退。その後関西テレビ(1982年〜2003年)とスポーツニッポン(1982年〜)で野球解説をしている。1988年野球殿堂入り。 20年間の監督生活で8度のリーグ優勝を果たしながら、日本シリーズでは1度も日本一に就けず「悲運の名将」と言われた。ただし西本当人は自分が「悲運の名将」と言われることには否定的で、「選手が頑張ってくれたおかげで8度も日本シリーズに出場できたのだから、私は幸せ者だ」と語っている。3つのチームを優勝に導いた監督は2009年現在、西本と三原脩のみ。三原が指揮したのが1リーグ時代の巨人とセ・パ両リーグから1チームずつ(西鉄・大洋)だったのに対し、西本が指揮したチームはすべてパ・リーグであり、現役時代も含めてパ・リーグ一筋の野球人生だった。 阪急・近鉄時代には時間をかけて選手を育て、チームを作り変え、弱小球団を常勝軍団へと導いた。西本のように、2チームで自らチームの土台を作り上げて優勝させた監督は極めて稀である(他には南海・ヤクルトを率いた野村克也など一握り)。 1960年の大毎監督辞任、1966年の信任投票事件、1975年の羽田殴打事件などに見られるように、チームの強化と見込んだ選手の育成のためにはあえて鉄拳制裁や自身の首をかけることも辞さなかった。1978年オフには監督辞任を表明したが、「俺たちを見捨てないでくれ!」と選手に引き止められて辞任を撤回し、1979年・1980年とリーグ二連覇を達成。そして勇退表明後、最後の試合となった1981年の近鉄-阪急最終戦(日生球場)では両チームの選手から胴上げされた。 阪急の監督を勇退した次のシーズンから同一リーグである近鉄の指揮を執ったが、このときは近鉄側から阪急の森薫オーナーに対して近鉄の監督に迎えたいという要請があり、森オーナーも本人の意向に任せるとしてこれを承諾した。近鉄との契約の席には森と近鉄社長の今里英三が同席する異例の形となった。このため、後に野村克也や星野仙一が阪神タイガースの監督に就任したときのような非難めいた議論は当時起きなかった(また、野村や星野の阪神監督就任時にこの西本の前例にはほとんど言及されなかった)。 監督勇退後は長らくプロ野球ニュース(フジテレビ系)の解説者を務めたが、東京(フジテレビ)のスタジオに出向くことは比較的少なく、特に高齢となった1990年代後半からは大阪・関西テレビからの中継が多かった。この他、1984年限りで辞任した安藤統男監督の後任として阪神から監督就任要請を受けるも、表向きは高齢であることを理由に辞退している。 2003年9月15日、阪神タイガースがセ・リーグ優勝を決めた阪神対広島戦を最後に、高齢ということもあり同局の解説業から勇退した。 近鉄時代には土井正博、永淵洋三、佐々木宏一郎、伊勢孝夫、神部年男といった主力の生え抜き選手を自らの提案でトレードに出し、エースの鈴木啓示との確執が何度となく噂されたが、ファンからは「西本さんならチームを強くしてくれる」と厚い信頼を得ていたため、非難の声は少なく進退問題に発展することはなかった。 鶴岡一人、千葉茂亡き今、日本プロ野球界において川上哲治に次ぐ重鎮中の重鎮で多大な影響力を持っている人物であり、教え子には長池徳士、山田久志、加藤英司、福本豊、今井雄太郎、鈴木啓示、梨田昌孝などが挙げられる。 エピソード [編集] 三原監督スッポカシ事件 [編集] 佐々木信也(スポーツ評論家)がNHK教育テレビジョン「知るを楽しむ」で語ったところによると、1960年の日本シリーズ開幕を翌日に控え、西本と大洋ホエールズの三原脩監督の直前対談(佐々木司会)が日本教育テレビ(NETテレビ。現・テレビ朝日)の生放送で行われることになっていた。 ところが生放送のスタジオに三原がなかなか現れず、18時の放送開始当初から佐々木と西本による2人での座談会に終始した。これに西本は激昂し退席しようとしたが、佐々木が引き止めて何とか30分の対談は行われた。しかし三原はとうとう出演せず、本番終了後も西本の怒りは収まらず、NETからの出演ギャラも受け取らずに早々に自宅に引き上げた。 大毎監督辞任 [編集] 1960年の日本シリーズ終了後、在任わずか1年で西本は大毎監督を辞任する。その原因は、日本シリーズの采配にあった。三原脩監督率いる大洋の先勝で迎えた第2戦(10月12日、川崎球場)の8回表、大毎は、まず先頭打者の坂本文次郎がセーフティ・バントで出塁、続く田宮謙次郎の時に土井淳のパスボールで坂本が進塁、田宮も四球を選ぶ。さらに榎本喜八がバントでランナーを送り、1死二・三塁のチャンスを作った。ここで大洋は先発・権藤正利をあきらめ、アンダーハンドのエース秋山登を投入し、山内一弘を敬遠させ次の谷本稔と勝負する作戦に出た。谷本の第1打のファールの後、西本はスクイズプレイのサインを送った。第2打で、谷本はサイン通りスクイズを仕掛けたが、打球はグラウンドでバウンドして捕手・土井の方向に転がった。土井は即座にボールをつかむと、本塁に駆け込んできた坂本にタッチした後、一塁に送球してを刺しダブルプレーとした。結局大毎はこの試合を落とし、2連敗を喫した。 大毎のオーナー・永田雅一は試合をプロ野球関係者と一緒に観戦していたが、このスクイズを「今のはどうなの?」と聞いたらその関係者は今の場面でスクイズはありえない、と説明したため、試合後、永田は西本に電話を入れ、「ミサイル打線を誇る大毎が、好機にバントなどというアホらしい作戦を採るとは何事か!!」とスクイズの件を非難した。しかし西本も「打線の状態は私が一番熟知しているので、ご安心下さい」と主張して退かなかった。このシーズン、大毎は18連勝するなど快調に飛ばしていたが、終盤失速し、優勝を決めたのは最終戦の2試合前だった。 激怒した永田は「バカヤロー」と西本を罵り、西本は「バカヤローとはなんですか、撤回していただきたい」と取り消しを求めた。しかし永田は応じず、そのまま電話を切ってしまい、会話は終わった。結局、日本シリーズは大毎のストレート負けで終わり、西本は現役時代から所属した大毎を実質的な解任で去った。伊集院光によると、TBSに入社した永田の孫の守は「もし横浜(TBSは大洋の後身である横浜を2003年に買収)が優勝を狙えるチームになったら、西本さんを監督に招いて、『これで亡き祖父を許してくれないか』と伝えたい」と語ったという。 当時大毎のスカウトを務め、永田雅一のもとにいた青木一三は、西本の監督退任について以下のように記している(要約)。「永田はシリーズ終了後に一応西本が挨拶に来るのを待っていたが、毎日新聞系の球団幹部が西本を温泉に「隔離」して会わせなかった。これを大映と毎日の「二頭政治」の弊害だと考えた永田は経営を大映に一本化して毎日側の役員を退任させ、同時に毎日側の役員が就任させた西本も合わせて退任した[5]。」 これに対して西本は1967年の座談会で、シリーズ終了後2日ほど自宅に帰る気になれず「雲隠れ」したものの、青木が言うようなことはなかったと発言[6]。戻ったあとに後援者などによる「残念会」の席で「4連敗についてはおわびせにゃいかんな」と電話のダイヤルを回しかけたが、「もうやめたらどうか」という声が参加者からあがったため、かけずにそのままになり、足を運んでお詫びをする気にもならないでいたところ、監督やスタッフが決まっていたと述べている[6]。西本はその後永田のもとに出向いて「お世話になりました」とだけ挨拶したという[6]。西本は2001年のインタビューでは「解任されたのか自分から辞めたのか、どちらかよくわからない」と語っている[7]。 監督信任投票事件 [編集] 1963年、西本は戸倉勝城の後任として阪急監督に就任した。弱小チームを立て直すためキャッチボールのやり方からやり直させるという厳しい練習姿勢で臨んだが、就任1年目でチームは最下位に転落する。この当時の阪急は「灰色の時代」と揶揄されるほどの弱小球団であった。1966年シーズン終了の時点で、1964年の2位が最高で、1965年は4位、1966年は5位と、後はBクラスだった。幾ら自分が汗水たらしても選手が付いていかずに悶々していた西本は、その年の秋季キャンプ初日、一軍マネージャーを介して選手に信任投票を義務付けるという思い切った策に出た。「監督についていけるものは=○、ついていけないものは=×を書くこと」というもので、西本は選手全員が自分を信頼しているか否かを見極める、という意図があった。 投票の集計結果は○32、×11、白紙4。 「×が一票でもあれば辞任する」と決めていた西本は「こんな結果ではチームは動かない。どうせなら俺がやめるしかない」と判断し、小林米三オーナーに辞任を申し入れ、自宅にこもってしまった。 「×11、白紙4」という結果には、「主力・若手とも分け隔てなく鍛える」という西本の育成法に、当時の主力選手が辟易していたという事情があった。当時のエース米田哲也は「西本さんはとても困った監督で、練習態度が悪かったり試合前に飲んで二日酔いでゲームに出れば、たとえ主力でも使ってもらえなかった。試合での活躍が月給にはね返る我々としては、たとえふらついていようが試合に使ってもらいたい…と考えていた。でないと、勝てない。これを考えると西本さんの厳格さは困ったものだ」と引退後述懐している。 選手には西本を排斥する意図はなかった。 それでも西本が辞任にこだわった背景には、岡野祐社長(のちパシフィック・リーグ会長)ら当時の球団フロントへの不信感があった。西本は、主力選手が彼への不満を、フロントとの酒席で漏らしている事実を掴んでいた。また一部のフロントは、その年ヘッドコーチに就任した青田昇を可愛がっていて、青田を次期監督にしたいと考えていたといわれる。西本は「フロントが自分を辞めさせたがっているのではないか」と疑心暗鬼に駆られながらも、「偉い人との酒の席だから口先を合わせているだけで、本当は理解してくれている」と選手を信じていた。 西本の辞任申し入れで、一部フロントが企図した「青田体制」は実現に向かって前進したかに見えた。だが小林は、西本に対しては「報告は球団社長(=岡野)から聞く」と縦の線を守り通しつつ、岡野に対し「たとえ何年かかろうと西本を翻意させろ!阪急の再建は西本以外にない!」と説得を厳命。岡野から「小林オーナーがお前を信頼している」と告げられ、辞意を撤回した。同時に西本は、「組織としては非常に危険な考えかもしれないが、俺が監督である間は、選手個々の意志に遠慮する事無く、俺が思う方向へ選手を持っていくしかない」と腹を括ったという。 翌1967年、阪急は球団創設32年目にして悲願のリーグ優勝を果たす。これ以降阪急は、西本が1973年限りで勇退するまでリーグ優勝5回の第一期黄金時代に入った。 幻の信任投票 [編集] 西本は、大毎監督だった1960年にも似たような事件を起こしている。 当時の大毎には前監督の別当薫を慕う「別当派」と呼ばれる選手がおり、九州でのオープン戦では球場に来ないなどして西本に反抗していた。西本はチーム分裂を憂い、ある日のミーティングで「監督として俺を信任するかしないか、投票を行ってくれ」と言い残して部屋を去った。 それから選手だけによる話し合いが行われたが、山内一弘の「俺は野球さえやれればそれでいい。だから監督が別当さんだろうが西本さんだろうがかまわない」という言葉に榎本喜八が同調したことから事態は収拾、結局信任投票は行われなかった。 西本はリーグ優勝によって選手の信頼を勝ち得ることができ、監督を辞任する時には選手たちから時計を贈られたという。 羽田殴打事件 [編集] 1975年後期、阪急西宮球場での対阪急戦、試合中に西本が羽田耕一を殴打した事件である。 この年、近鉄は阪急のルーキー山口高志に苦戦し、この試合も阪急は山口がリリーフで投げていた。西本監督は試合中、自軍の攻撃が始まる前に円陣を組み、「絶対に1球目は打つな。1球目がボールなら、2球目も打つな」という指示を出していた。しかしこの回の先頭打者だった羽田は、初球に来た高めのストレートに手を出して空振り。結局その打席ではサードゴロに打ち取られてしまった。自ら育てた羽田のミスに怒った西本は、試合中にもかかわらず羽田に鉄拳を浴びせた。山口や佐々木恭介によれば、西本の行動を見て阪急ナインは「一瞬、野球を止めた」という。 実は羽田は、試合の円滑な進行のための先頭打者の慣習としてバッターボックスに入っており、西本の指示は聞きようがなかった。当の羽田自身は、引退後に「最初は悔しかったけど、時間が経つにつれてしょうがないと思った。僕は怒られることは多かったが監督に対して絶対的な信頼があったので反抗したことはなかった」と語っている。近鉄はこの年後期優勝を果たした。プレーオフでは阪急に敗れたが、球団創設25年目にして初めて「優勝」という経験を味わうことになった。 なお羽田が円陣に加われなかったことを、後日梨田昌崇から「羽田はあの時監督の指示を聞いてません」と指摘されたが、西本はそれに「しまった!」と感じたものの、羽田に対しての謝罪は行っていない。これは近鉄が球団合併によって消滅する際に出された刊行物の中での西本のインタビュー、羽田と栗橋茂の対談で明かされている。プロ野球ニュースのオフ企画でも「殴った後、『しまった』と思ったが、ここで謝ったら監督の立場がないと思ったので撤回しなかった(笑)」と言ったことがある。 また、この事件に関して一般に西本が「ボールを打つな」「高めを打つな」「高めのストレートに手を出すな」といった指示を出したことになっているが、自著の中で「新聞記者はボールを打つな、高めを打つなという指示だったって記事に書いてたがそうじゃない」と否定している。 「絶対に1球目は打つな」という極めて単純な指示だったからこそ、それが守れなかったと思った西本は、羽田に対して思わず手が出てしまうほど怒った、という。 西本はこの時出した指示に関して「山口には何試合も抑えられていたのでデータを分析すると、1球目、2球目のボール球に手を出してカウントを悪くしてることがわかった。山口が気持ちよく放るストレートはなかなかストライクにならないが、速いから振ってしまう。山口が力を込めて投げるとだいだいボールになるからそういう指示を出した」と語っている。 江夏の21球 [編集] 1979年にヤクルトから移籍したチャーリー・マニエルを擁して球団創設以来の初優勝を果たした直後の大阪球場で行われた広島東洋カープとの日本シリーズ第7戦。1点ビハインドの9回裏1アウト満塁で打者石渡茂にスクイズのサインを送るが、江夏豊投手に見破られ、三塁走者が挟殺。その後石渡も三振に終わり、ゲームセットとなる。この場面は山際淳司がSports Graphic Number創刊号にて「江夏の21球」として活写したことでも知られる。 なお、西本が采配をとった翌年のオールスター第3戦において、1点ビハインドの9回表一死満塁で全セのマウンドに江夏が登板、16球でゲームセットとなり「またも満塁で江夏に抑えられた」と言われた。2死になったとき打順はピッチャーだったが、すでに野手をすべて使ってしまっていたため、南海の投手である山内新一を代打として送り込んだもののあえなく三振に終わる。山内を起用したのは「彼が打撃がうまいという話だったから」と西本はコメントしている。山内は他の南海選手のヘルメットが合わなかったため、近鉄のヘルメットをかぶっていた(後に1991年のオールスターでも、近鉄の野茂英雄がオリックスのヘルメットを被って代打出場した。)。 左投げの二塁手 [編集] 左投げの選手は一般に、捕球して一塁に投げる時、「蟹の横這い」のような形になってしまうため、一塁手を除く内野手に不向きと言われている。左投げでありながらプロ野球で二塁手を経験したのは、西本と大東京の鬼頭数雄、阪急の山田伝の3人だけである。 1951年8月16日、対西鉄戦、試合は毎日が選手を総動員する展開になり、9回の守りに入った時には、使える内野手が、一塁しか守れない三宅宅三だけになった。そこで西本は湯浅禎夫総監督に「三宅を入れましょう。自分は二塁に回ります。二塁は中学時代に経験があります」と進言。湯浅は背に腹は代えられないとして西本を二塁に回したが、守備機会はなかった。 西本が一塁以外を守ったのは、プロではこの時が唯一である。 三原脩との因縁 [編集] 初の日本シリーズで対決して(試合前も含めて)苦杯をなめた三原脩とはその後も縁が続いた。三原が近鉄を率いてチーム初優勝に挑んだ1969年に、阪急の監督としてそれを阻んだのが西本だった。そしてそれから10年後に、西本が近鉄の指揮をとり、三原のなしとげられなかった近鉄の初優勝が実現した。また、上記の通り3チームで胴上げ監督になっているのは西本と三原だけである。 PR |
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