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【2024/10/06 15:29 】 |
中畑清の北京踊り
中畑 清(なかはた きよし、1954年1月6日 - )は、福島県西白河郡矢吹町出身の元プロ野球選手(内野手)。愛称は「ヤッターマン」、「絶好調男」。
現在は日本テレビ野球解説者及びスポーツニッポン新聞社専属評論家。
目次 [非表示]
1 来歴
1.1 現役時代
1.2 引退後
1.3 国政選挙への挑戦
2 プレースタイル
3 人物像
4 詳細情報
4.1 年度別打撃成績
4.2 背番号
4.3 タイトル・記録
5 芸能活動
5.1 テレビ・ラジオ
5.2 歌
5.3 CM
5.4 ゲーム
6 脚注
7 関連項目
8 外部リンク
来歴 [編集]

現役時代 [編集]
福島県の安積商業高校から駒澤大学に進学。東都大学リーグ通算82試合出場、300打数92安打、打率.307、10本塁打、51打点。1973年秋季リーグ最高殊勲選手。ベストナイン4度受賞。大学時代は殆どがデーゲームの為、常時ではないが黒いサングラスがトレードマークで、当時はサングラスを着用する選手もプロ・アマ問わず珍しく、スポーツ用のゴーグルも無かった時代で珍しかった。
1976年、ドラフト3位で読売ジャイアンツに入団。巨人1位指名が有力視され駒澤大学の寮に報道陣が殺到したが、1位指名は銚子商業の篠塚利夫になり「高卒の人間に先に指名された」とがっかりした反面、ファイトが増したという。駒大野球部同期の平田薫、二宮至とともに巨人に入団したことから『駒澤三羽ガラス』と呼ばれた。入団後3年間は1軍での出番に恵まれなかった。
まだ若くあまり注目もされていなかった頃、当時の長嶋茂雄監督から「どうだキヨシ、調子は?」と聞かれた際、「まあまあです」と答えた。これを聞いていた土井正三コーチに「監督に調子を聞かれたら嘘でもいいから必ず絶好調と答えろ」と言われて(板東英二曰く、「何を聞かれても」)「絶好調!」と答えるようになった。この当時「オレは多摩川のハナクソだよ」と自嘲していたという。
また、当時広島東洋カープの抑えだった江夏豊と対戦。中畑曰く、江夏はマウンドに上ると新しいボールを毛嫌いし、毎回ボールに土をすりこんでいたという。そこで、当時打撃コーチであった国松彰から「ボールを替えてもらえ」との指示が中畑に飛んだ。中畑は渋々、ボールを1球投げたところでボールの交換を要求した。捕手も嫌々ながら新しいボールと交換して江夏にボールを渡した。すると江夏が中畑を凝視しながらマウンドから降り、中畑の手前2mほどまで近づいて、「おい若造、ボール替えてくれ? 10年早いんや!!!」と凄まれ、思わず「すいません!」と謝ったという。中畑はこの打席で頭の高さほどのボール球を振って三振し、即2軍落ちになった。この後の江夏との対戦はまったく打てなかったという。
中畑の転機は3年目オフの1978年の日米野球での活躍である。シンシナティ・レッズが来日し、日米野球の第1戦で巨人と対戦する。この試合で中畑は高田繁に変わって途中出場し、レッズのクローザーのマリオ・ソトから2ランホームランを放った。そして、1979年に衰えが見えてきた高田に代わって三塁手のレギュラーを得た。この年新人王の資格もあったがシーズン終盤で骨折、新人王はならなかった。そして翌1980年に初の規定打席に到達した。
同年の秋、監督の長嶋茂雄の辞任、王貞治の引退、そしてドラフト会議で中畑と同じ三塁のポジションの原辰徳の入団の出来事が起きた。ここでポジションの問題が発生するが、新監督の藤田元司ら首脳陣は当初中畑三塁・原二塁の構想を持っていた(ちなみに遊撃手は元々レギュラーである河埜和正、そして一塁には以前から王の後継人ともくされていた山本功児)。しかし、1981年になると中畑がシーズン途中でケガで戦線離脱し、その間に原が三塁へ、二塁に篠塚利夫が入り、高打率を記録した。(その間一塁には長年大洋の顔として2000本安打を記録をし、巨人にこの年移籍となった(後に自身の現役ラストイヤーとなった)松原誠が守り、ベテランの味を発揮した。)そして中畑は戦線復帰すると一塁手に転向。中畑の怪我のおかげでポジション問題が解決されたと評された。この年巨人は1973年以来の日本一を奪回し中畑も.322、16本塁打66打点と活躍した。
1983年、当時守備走塁コーチだった末次利光が最終戦で3割前後の選手の打率を1打席ごとに電卓で計算し、3割に乗ったところで交代させたため、打率は3割ジャストであった。この点を指摘された中畑は「3割だけは契約更改の席の印象が変わるので勘弁してほしい。その代わり、もし自分がタイトル争いをしたら絶対休まない」と返答した。実際に中畑は駒澤大学時代に最終戦まで出場して首位打者を逃した経験があったが、プロではその機会は訪れなかった[1]。
1985年に結成された労働組合・日本プロ野球選手会の初代会長に就任。同年オフ、高校野球史上最高のスラッガーとなった同じ内野手の清原和博が巨人入りを希望していたため、定位置を奪われる危機感を持った。清原は西武ライオンズに入団したが、加藤英司が近鉄バファローズから移籍。ポジションを争う形になったものの、最終的には加藤を代打に追いやった(加藤は1986年オフ自由契約)。
1989年に三塁再コンバートが試みられたが、故障し、引退を表明。リーグ優勝を決める試合(横浜スタジアム)で二塁打を放った際のことを「自分が日本の球場で最初にウェーブを起こした」と発言している。その後の日本シリーズ第7戦(藤井寺球場)では、近鉄・吉井理人から代打本塁打(この後、もう1打席回ったが、最終打席は三塁フライに終わった)。この試合を最後に、現役を引退した。
引退後 [編集]
引退後は日本テレビ・スポーツニッポン野球解説者を経て、1993年から第二期長嶋監督の巨人で打撃コーチに就任。
1993年はチームがリーグ最低打率に終わり、コーチとしての指導力を問われた。また、駒田徳広の横浜へのFA移籍にあたり中畑との確執が噂された事や、中畑よりも打者としての実績が格上である落合博満がFAで入団したことにより存在感を出すことができず、コーチとしての評価は高くないまま終わった。それでも1994年には一塁ベースコーチを担当し、ムードメーカーの役割に徹して日本一に貢献した。同年オフに退団。その後は再び日本テレビ・スポーツニッポン野球解説者として現在に至る。
2004年のアテネオリンピック野球日本代表のヘッドコーチ(監督の長嶋茂雄が病床に伏してからはチームの指揮を執る。監督代行ではなくあくまでヘッドコーチであり、講演活動で監督代行の肩書きが欲しかったと発言している。)を務め、本大会では、国際オリンピック委員会の規定により長嶋監督の登録が認められなかったため監督に就任、銅メダルを獲得。同オフ、巨人から非公式に助監督を要請されたが、これを断っている。
毎年、福岡県北九州市の九州ゴルフクラブにて、「元気だぜ!」というタイトルのプロアマゴルフコンペを行っている。
国政選挙への挑戦 [編集]
2010年5月9日には、たちあがれ日本が同年7月に執行予定の第22回参議院議員通常選挙の立候補者として擁立する方針であると報じられ[2]、5月11日に中畑自身が立ち上がれ日本の代表である平沼赳夫、共同代表の与謝野馨が同席し、正式に出馬表明記者会見を行った[3]。7月11日の当開票の結果、111,597票を獲得し同党内で2位になるも1人しか当選しなかったため落選。
プレースタイル [編集]

レギュラー時代は主に6番・7番打者をつとめ、積極的な打撃で中軸打者をホームへ帰した。典型的な早打ちスタイルの中距離打者だったが、原が4番に定着する過渡期の1984年には自己最高の31本塁打を記録している。「絶好調!」が口癖のムードメーカーで、その明るい性格からファンに人気があり、ヤッターマンの愛称で親しまれた。
守備も巧みであり、一塁手で1982年から1988年まで7年連続でゴールデングラブ賞を受賞した。その頃、江川卓の登板する試合に、よく守備で足を引っ張っていたので、江川から「150キロの牽制球」を投げられた。ただし、実際に守備については下手だったわけではなく、「性格的に三塁手向きのためか、本来二塁手の守備範囲の打球にまで突っ込む判断力の悪さがあるが、それを除けば、ゴロをとる技術に関しては一塁手としては(現役当時で)一番上手い」という評価すらあった。藤田監督は中畑がサード向き、原はファースト向きの性格でありながら原をサードに、中畑をファーストにしたのは最大の失敗だったと語っている[4]。
人物像 [編集]

プレーについて、「高い入場料を払ってきてくれるファンのために」と発言した。
現役当時に巷で流行だったもみ上げをまっすぐにカットするテクノカット(YMO(イエロー・マジック・オーケストラ)に代表される)を中畑もやっていた。
TOKIOの松岡昌宏が中畑の大ファンであり、それを知った時には家族で大喜びしたと言う。[要出典]
演歌を大変好み、テレビ番組のカラオケ大会ではよく山本譲二や北島三郎などの曲を歌う。また吉幾三の作詞作曲の『十和田丸』でデビューし演歌のシングルを2枚リリースしている。
1953年(昭和28年)度生まれのプロ野球選手(梨田昌孝、落合博満、真弓明信、吹石徳一など)による親睦会「二八会」(にっぱちかい)の会長を務めている[5]。
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【2010/11/09 23:52 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
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