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川淵 三郎(かわぶち さぶろう、1936年12月3日 - )は、日本の元サッカー選手、元日本代表監督、Jリーグ初代チェアマンを経て第10代日本サッカー協会会長を務めた。現在は日本サッカー協会名誉会長である。公式な愛称は「キャプテン」、渾名は「サブ」。家族は妻の康子と2女の4人家族。 平成21年秋の叙勲において旭日重光章を受章した。
目次 [非表示] 1 経歴 2 人物・エピソード 3 川淵キャプテン 4 VS 渡辺恒雄 4.1 発端 4.2 亀裂 4.3 移転 4.4 呼称 4.5 泥沼 4.6 後日譚 5 川淵批判 5.1 合併・吸収 5.2 バランスシート 5.3 ジーコ監督 5.4 オシム騒動 5.5 解任デモ 6 個人成績 7 代表歴 8 監督成績 9 その他 10 外部リンク 11 脚注 経歴 [編集] この記事に雑多な内容を羅列した節があります。事項を箇条書きで列挙しただけの節は、本文として組み入れるか整理・除去する必要があります。このタグは2009年2月に貼り付けられました。 1936年12月3日 大阪府泉北郡高石町(現在の高石市)出身、父川淵真一、母淑子の3男として出生。 1943年 大阪府高石町立高石小学校入学吉岡たすくの指導を受ける。 1949年 大阪府高石町立高石中学校入学、野球部に所属。 1952年 大阪府立三国丘高等学校入学、同年7月同校サッカー部に入部。1955年同校卒業 1957年 二浪の後早稲田大学第二商学部に進学。早稲田大学ア式蹴球部でプレー。関東大学リーグ優勝。 1958年 日本代表に初選出。関東大学リーグ優勝。 1959年 ローマ五輪アジア予選出場。 1960年 第7回チリW杯アジア予選出場。関東大学リーグ優勝。 1961年 3月、早稲田大学卒業後、古河電気工業入社。4月、横浜電線製作所勤務。同社サッカー部でプレー。 1962年 インドネシア・ジャカルタで開催された第4回アジア競技大会に出場。12月、結婚。 1964年 東京オリンピック出場、対アルゼンチン戦でゴールを挙げる。 1966年 長女、純子誕生。 1968年 次女、英子誕生。 1970年 現役引退(日本代表通算68試合、18得点)。古河電気工業サッカー部コーチ就任。 1972年 古河電気工業サッカー部監督就任。 1975年 同部監督退任。 1976年 日本サッカーリーグ常任運営委員就任。10月、伸銅事業部第1販売部課長。 1979年 同委員退任。 1980年6月、LA五輪強化部長に就任。8月、系列会社「谷商株式会社」の常務取締役に出向。11月、日本代表監督代行就任。 1981年 日本代表監督退任。 1982年6月、古河電気工業・名古屋支店金属営業部長。 1984年4月、日本サッカー協会強化部長退任。 1988年6月、古河産業へ出向、取締役伸銅品部長。8月、JSL総務主事就任。10月、日本サッカー協会理事就任。 1989年6月2日、JFA・プロリーグ委員会委員長就任。 1990年8月、プロリーグ検討委員会委員長就任。 1991年3月、強化委員長、プロリーグ設立準備室長就任。11月、社団法人日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)設立、初代チェアマン就任。11月、30年勤続した古河電気工業退社。 1993年5月、Jリーグ開幕、国立競技場にて開幕宣言。 1994年5月、日本サッカー協会副会長就任。6月、W杯日本招致委員会実行副委員就任。10月、強化委員長退任。 1995年 初孫誕生。 1996年7月、2002年W杯開催準備委員会実行副委員長就任。二人目の孫誕生。 1997年12月、2002年FIFAW杯日本組織委員会理事就任。 2001年 三人目の孫誕生。 2002年7月、Jリーグチェアマン退任。後、日本サッカー協会会長(キャプテン)に就任。 2008年会長を3期6年務め、任期満了後に名誉会長に就任。 2010年9月、日本サッカーミュージアム館長に就任。任期は2年。 人物・エピソード [編集] 小中学生時代は野球に打ち込み、それまでのサッカー経験は一度だけで感想は「汚いし痛いスポーツ」。高校一年生の1学期、同級生に「夏休みに四国で大会があるからサッカー部に入ったら高松に行ける」と誘われ入部、理由は「四国に行きたかった」だけであった。四国行きも叶って川淵少年は退部を申し出るも先輩部員から「やめないで」と涙で懇願され慰留。 上記の通り野球ファンでもあり、マスコミからプロ野球へのコメントを求められる事もある。2004年に起こったプロ野球再編問題の際に、Jリーグ会長の立場として当時プロ野球界のトップに当たるコミッショナーを務めていた根來泰周を批判した。 早稲田大学ア式蹴球部に所属し、日本代表として東南アジア方面に同行。当時イギリス領だった香港のクリケットのカントリークラブにある緑の芝生に驚き、さらにドイツ・デュースブルクスポーツシューレの環境を目の当たりにし彼我の差に愕然となる。日本サッカー協会が西ドイツサッカー協会にコーチの派遣を要請、デットマール・クラマーがコーチに就き、基本からの単調な反復練習に不満を感じるものの指導通りに出来ない事を自覚し焦る。 二宮寛日本監督解任と次期監督の座を巡って起きた内紛に体よく使われた形となった川淵は神経性胃炎を起し、これを発端にサッカーとは距離を置き、たまに静岡放送(SBS)で試合解説をするくらいで名古屋支店の仕事に専念。この頃ゴルフ三昧の日々を送り、メキメキ上達したという。 「名古屋支店に6年勤務したから、次は本社の営業部長あたりかな?」と漫然と考えていた川淵だったが、関連会社への出向人事に「これでは年齢的に本社に戻れない上に、良くて常務止まり」と奈落の底に落とされ顔面蒼白、妻からは心配され会社組織に幻滅。名古屋から北鎌倉に引越し、斜めに傾いだ借家に住み、朝5時半起床、自転車と電車とバスを乗り継ぎ、会社がある日本橋まで通勤。 日本サッカーリーグ(JSL)総務主事になった川淵は、水面下ではプロ化の動きがあったもののサッカーに対して投げやりで、当時の場末感漂うJSLを見て幻滅しており、内心プロ化には消極的な立場であった。何をやろうにも予算が無く、自らサンドイッチマンとなり広報活動したり、関東圏にあるサッカースクールやクラブ、学校の指導者宛に手紙による招待作戦や、サッカー好きでお笑いタレントの明石家さんまに頼み込んで集客ポスター[1]を作ったりしていた。 「無駄に長いスピーチはやめておこう」とJリーグ開幕宣言の時間を30秒と決めて「スポーツを愛する多くの皆様に支えられまして、Jリーグは今日、ここに大きな夢の実現に向けてその第一歩を踏み出します。1993年5月15日、Jリーグの開会を宣言します。Jリーグチェアマン 川淵三郎」と纏め、国立競技場に集まった大観衆の中で宣言するが、緊張していて目が泳ぎ、太字部分を「向かって」と読み、直後の段取りも間違えてしまう。 カザフスタンとドローに終わった加茂周監督解任を発端とする一連の最中に、ジェフユナイテッド市原の親会社であるJR東日本のトップが「何かあったら、Jリーグやめちゃう」と発言、「やめてみろ」とやり返すも、ジェフのスタッフが「川淵さんのあの発言はよろしくない」と諌められ、内部からこのような動きが出たことについて協会会長の長沼健と共に心身を疲弊させていた。この騒動の中、川淵の自宅には嫌がらせや中傷の電話が続き、妻が精神的に参っていた上に、自身も予選の重圧と胆嚢摘出手術で体は悲鳴をあげ、マレーシアに同行出来なかった川淵は自宅でTV観戦。岡野雅行のVゴールでサッカー日本代表W杯初出場、家族4人抱き合って喜んだ。 Jリーグのシーズンオフに放送されたテレビの特別番組において俗に「珍プレー」と呼ばれるような選手や審判のミス等を集め、珍奇に編集し視聴者の笑いを誘う企画内容があり、この放送を見た川淵は「一生懸命プレーする選手達を笑いものにするとはけしからん!」と激怒して、この件以降そのようなコンセプトの番組へは映像使用を許可しない方針を取った。 相手や状況に構わず舌鋒鋭く、売り言葉に買い言葉になってしまう事から後述する項目において、ワンマンとも取れるその言動で「独裁者」と渾名される。さらに場を問わず感情の起伏を露にする性格で、横浜フリューゲルス存続の危機でフリューゲルスサポーターから「サポーターを作ったのは川淵さんなのに、何故サポーターからチームを取り上げるのか」と窮状を訴えるサポーター達との話し合いの後に落涙した。韓国とワールドカップの共催が決まった会見では「私の顔を見ていただければわかる」と憮然な態度だった。2006年ドイツワールドカップ、対ブラジル戦での惨敗に動揺、落胆し、直後の記者会見で迂闊に次期代表監督の名を述べた。また高円宮憲仁親王急逝、当時日本代表監督であったイビチャ・オシムが急病で倒れた時は目を赤くしていた。 三人の孫を連れ東京ディズニーランドで2時間近く並んで「空飛ぶダンボ」に乗る。 川淵キャプテン [編集] 日本サッカー協会会長に就任した後も「親しみやすい存在、開かれたサッカー協会を目指したい」という川淵の意向と、自身の談話で「協会の“会長”という肩書きは重く感じるから」「選手と対面した際、(肩書きが会長だと)選手が固くなってしまうから」という理由から川淵が“会長”に代わる愛称をマスコミに向けて募集、「キャプテン」の呼称が採用される。採用理由として「舵取り役といったイメージで選んだ」と述べる。[2]以降、殆どの媒体や公式な行事、文書で「キャプテン」と表記、呼称するようになった。尚、NHKでは「キャプテン」を使用せず、会長在任中一貫して「川淵会長」と表記していた。 後、2008年7月に川淵は会長(キャプテン)を退任して名誉会長となったが、後任の犬飼基昭は「キャプテン」の肩書を引き継がず「会長」の肩書を使用している。この点について川淵は「キャプテンの呼び方はオレ1代限りだよ」と語っている[3]。 ちなみに「キャプテン」の本義は船長・機長・指揮官、階級では大尉・警部である。 VS 渡辺恒雄 [編集] この節には「独自研究」に基づいた記述が含まれているおそれがあります。信頼可能な解釈、評価、分析、総合の根拠となる出典を示してください。このタグは2010年8月に貼り付けられました。 発端 [編集] 協会としてはプロサッカーリーグ設立に際して、ドイツ・ブンデスリーガの規約を下敷きとしFIFAの規定に沿った規約を作成していった結果、リーグ権限がチェアマンに集まる基本設計となった。Jリーグにおいてオーナー会議というものは存在せず、リーグ運営の決め事は各リーグの代表(社長)によって組織される実行委員会で話し合い、理事会[4]で承認するシステムとなり、協会が掲げた「企業スポーツからの脱却」「地域密着」といった「理念」が衝突の火種となる。 Jリーグ開幕当初サッカーブームが沸騰。社会現象にある中、高年俸のスター選手を抱え、破竹の勢いで勝ちまくっていた「読売ヴェルディ」(ヴェルディ川崎、現・東京ヴェルディ)だったが、オーナーの意向が反映されない度に、ヴェルディのJリーグ撤退、果ては新リーグ構想まで仄めかし揺さぶりをかけた読売新聞社長渡邉恒雄(当時ヴェルディ川崎オーナー)を、当時Jリーグチェアマンであった川淵は「どうぞ、ご自由に」と一蹴。そもそもFIFAは一国一協会一リーグ一代表の原則をとっており、仮に渡邊が日本サッカー協会の支配下に無い「新日本サッカーリーグ」を発足させ「サッカー新日本代表」[5]を選出しようとFIFA傘下の国際試合に出られない選手を抱える事になる。この一件で渡邊がサッカーというスポーツそのものより、超人気名門クラブのオーナーであろうと権限が無い事を理由に立腹してるだけと看做されてしまう。 ただこの渡邊の「新リーグ構想」も強ち荒唐無稽の話ではなく、プロリーグ参加意思のアンケートを取った際、読売は入場料収入・放送権料合わせて1億8000円と予想していたが、Jリーグブームに乗った勢いは凄まじく、Jリーグトータルでの放送権料が初年度10億円超、2年目には20億円超となり、JFAは莫大な収益を上げ1クラブの平均収入が約25億円となった。多くの代表選手と高給のスター選手を抱えていた読売は全国区で人気のあった読売巨人軍を新聞の拡販に使ったのと同じ方法で、ヴェルディの試合チケットを新聞の拡販に使い部数を伸ばし、アウェーでも地方でも大きな集客力を見せ、[6]地上波が放送するJリーグの試合は軒並み高視聴率を取り、一時期その半分の試合中継をヴェルディ戦が占め、Jリーグ3年目でヴェルディの年間収入は55億円、その内30億円を選手の年俸に充てていた。しかし収益をJFAに一度通してから各クラブに分配、さらには最高300億円の売上げを出すに至ったマーチャンダイジングまで握るというシステムが、後述の氏家斉一郎の発言に見られるように読売を含めた他のチームから不満が出たのも必然だった。 亀裂 [編集] 渡邊はこのJリーグのシステムに苦言を露にし、理念を「空疎」と言い捨て、事毎に理念を掲げるチェアマンの川淵を「独裁者」と呼ぶ。一方の川淵は1993年8月号「月刊プレイボーイ」誌上のインタビューにおいて「ナベツネさんとは開幕の時も仲良く喋った、個人的には好き。僭越ながら自分と似ている部分があると思う」と答えた。三浦知良・設楽りさ子夫妻の結婚式(1993年8月)でも、披露宴会場の入り口で結婚式の仲人を務めていた渡邊と遭遇し「おー!どうもどうもチェアマン」と笑顔と握手で出迎えられる。しかし設楽りさ子の父が渡邊に仲人を依頼した時は「あの川淵はすごい独裁者だ、チャウシェスクだ、ヒトラーだ、とんでもねえ野郎だ」と罵詈雑言を並べていた。 移転 [編集] その後も確執は燻り続ける。「スタジアム建設促進とプロサッカーチームを調布に誘致する会」が、1993年11月にヴェルディ川崎と東京ガス(現・FC東京)に対し「武蔵野の森総合スポーツ施設」への移転を要請したのに対し、当時のヴェルディ社長が「東京を本拠地にするのが私達の夢」とコメント、渡邊も「12月中にも決めたい」と言い出し、翌日には東京ガスが誘致から撤退する意向を仄めかせ、移転問題の状況が迷走。Jリーグ規約では「ホームタウンの変更は原則禁止」とされており[7]、止む無き事由が生じた場合は「理由を記載した書面を変更日より1年以上前に提出しJリーグ理事会に申請し、承認を得る事」が必要で[8]、このヴェルディの東京移転希望は唐突なものであり、手続き上も問題が多すぎた。 川淵は穏便に済ませようとしたが、一部スポーツ誌が「読売に屈したJリーグ」「川淵チェアマン、渡邊の軍門に」と書きたてた。この移転問題は、その後調布市からは「横取りするような形になるのは如何なものか」といった意見が出て、川崎市からは「等々力陸上競技場を100億円かけて改修したのにどうしてくれるんだ」と引き止められたが、サポーターから「出て行きたかったら出ていけ」という意見も出始めて、結果ヴェルディは宙に浮いた形になる。 呼称 [編集] この頃Jリーグ事務局では、メディアにおけるチーム名の呼称を「地域名+愛称」で統一する事を通達し、各媒体も全面的に協力してくれる運びとなったが、読売傘下の媒体は開幕から1年間「読売ヴェルディ」で通した。この呼称問題が、上記の移転問題と並行し、企業名を付け続けているヴェルディにより川淵のメンツが潰れる形となり「名称を改めないのであれば移転も認めない」と釘を刺し「ヴェルディ川崎」と改められた。 また渡邊は「チーム名に出資企業の名が入っていないと、赤字補填のお金が広告宣伝費として損金扱いされない」と述べていたが、実際には国税庁はユニフォームのどこでもいいから出資企業の証となるものを入れれば広告宣伝費として認めている。これを知っていたJリーグは、企業色を全く前面に出そうとしなかったトヨタ自動車(名古屋グランパスエイトの親会社)と住友金属工業(鹿島アントラーズの親会社)に「小さくて構わないから、何か自社の証になるものをユニフォームに入れてくれ」とお願いするという、あべこべの構図になっていた。 ただ「企業名がチーム名に入り、特定の企業の資本で運営され、且つ地域密着を実現したチーム」としては、日本でも過去に新日鉄釜石ラグビー部(現・釜石シーウェイブス)の好例がある。また海外でもドイツ・ブンデスリーガのバイエル・レバークーゼン[9]、オランダ・エールディヴィジのPSVアイントホーフェン[10]などの例が見られる。 Jリーグ規約に則ってチーム名から企業名を外して市町村の名前を付けるのであれば、本来吹田市の万博記念競技場を本拠地とするガンバ大阪は「ガンバ吹田」、調布市の味の素スタジアムを本拠地とするFC東京は「FC調布」になるのが理想である。また豊田スタジアムを本拠地の一つとする名古屋グランパスエイトは「豊田グランパスエイト」でも良いことになる[11]。 さらに厳密に言えば、佐藤工業と全日本空輸の頭文字が入ったAS横浜フリューゲルス(横浜マリノスに合併吸収されて横浜F・マリノスとなる)、JR東日本と古河電気工業の頭文字(JEF)が入ったジェフユナイテッド市原(現・ジェフユナイテッド市原・千葉)は規約から外れている事になる。浦和レッドダイヤモンズについては、企業名こそないものの、三菱グループを意味する社章がそのままチームの愛称ならびにチームマークになっているため、これもまた一例といえる。この事から「地域密着」の解釈や扱いがいくつかのクラブにおいてばらつきが見られ、必ずしも統一されたものではない。 泥沼 [編集] 川淵は『週刊現代』の記者の取材を受けた際に渡邊を徹底的に批判。送られてきたゲラ刷りを見た川淵は自分が喋ったにも関わらず、その激烈な内容に驚愕し、修正した文章を『週刊現代』に送り返したが、同記事は結局1994年1月15・22日発売の『週刊現代』誌上で「初春に吠える!BIGインタビュー2”Jリーグを読売の思い通りにさせない”」の見出しで掲載された。この記事が載る事はヴェルディ副社長に事前に通達しており、渡邊は「僕は見ないよ」と言っていたが、渡邊は「記事を読んで烈火の如く怒った」という。この記事が発端となり、読売が内容証明郵便を川淵の”自宅”に送付。『週刊現代』側も内容証明郵便を読売宛てに送る。 そして1994年12月に東京・芝の東京プリンスホテルで行われたヴェルディの優勝記念パーティで乾杯の挨拶に立った渡邊は「市町村第一主義も結構だが、スポーツは企業がサポートして育っていく。独裁者が理念ばかり掲げてばかりではスポーツは育たない。揉め事が起こっても裁判所に訴えられないJリーグのバカな規約は憲法違反で司法を否定している」と糾弾。その場に居合わせた木之本興三(当時Jリーグ専務理事)も「この発言は理事会で取り上げ、ヴェルディより謝罪が無い場合、Jリーグからの追放も辞さない」と徹底抗戦の構えを取る。3日後、読売も氏家斉一郎を矢面に立てて「民主主義国家では放送権はクラブにある。川淵君は共産主義の論法を振りかざしてJリーグを私物化しており各クラブは不満を抱えている」と発言。その後ヴェルディ副社長が「渡邊の発言は個人的見解でクラブとは無関係」とし、当時、実兄を失って落ち込んでいた川淵は、これ以上泥沼化するのは得策ではないと考え、「どうこうするつもり気は無い」と述べJリーグにおける川淵と渡邊の確執は終結する形となる。 後日譚 [編集] 間もなく、東京・日比谷の日本プレスセンタービルで行われた出版記念パーティで、川淵は渡邊と同じ場にバッタリ居合わせることになり、渡邊が挨拶で「どこかのワンマンと違い、野球界は川島広守(当時セントラル・リーグ会長)さんが頑張っておられる」と発言。川淵も会場のスタッフに挨拶を促され一旦拒否するも、司会者が「川淵さんがどうしても挨拶したがってます」と場の雰囲気に強引に乗せられた形となった川淵は「将来、本を書く時は、内容も題名も決まってます。それは『独裁者への道』です」と反論を兼ねた挨拶をして満座は爆笑。但し、渡邊は記者に対して「聞いていなかった」と返答した。 当の川淵は、この渡邊との確執について「僕が喋ったら記事にしてくれる。並みの相手ではこうはならなかっただろう。結果的に注目を集め、ひいてはJリーグの認知度を上げる一因になるのではと、途中からラッキーと思うようになった」と皮算用で考えていた。 1998年11月、ヴェルディの出資企業から読売新聞が撤退。これにより両者の直接対決は無くなる。 川淵批判 [編集] この節には「独自研究」に基づいた記述が含まれているおそれがあります。信頼可能な解釈、評価、分析、総合の根拠となる出典を示してください。このタグは2010年8月に貼り付けられました。 川淵の運営手腕は独裁的であるとの批判が週刊誌などでなされることがある。内容としては、代表監督や協会幹部の人事に関する問題などがある。木之本は、『週刊ポスト』2007年9月14日号誌上に「独裁者川淵に怒りの引退勧告」のタイトルで川淵を批判する文章を掲載した。協会の運営が川淵の独断であること、代表監督選考が独裁的であること、自分以外の功労者の切捨てがあること、などを主張している。また「渡邊vs川淵」の構図がマスコミによって作られ扇動、「ポスト独裁者」として担ぎ上げられた面も多々ある。 「プロサッカーリーグ設立」に対し当時サッカーに関わる人間や企業など、環境面においてプロリーグ設立の準備が整っていたとは言い難く、急激な変化に足並みが揃わなかった面も見られる。JFAにもそれは当て嵌まり、結果として発足間も無いJリーグの運営は暗中模索となり、協会を統括するチェアマン権限が「独裁的」となるのも当然の帰結でもあり、現在でも孕んでいる問題である。 合併・吸収 [編集] 川淵のチェアマン在籍時における最大の汚点として、横浜フリューゲルス(以下、横浜F)と横浜マリノスの合併(事実上の消滅)が挙げられる。バブルの残滓も無くなりJリーグの人気も下降、未曾有の不景気の中、赤字を出し続けるスポーツクラブは母体会社にとってコスト面において重荷となり、整理対象となる可能性は高かった。その中横浜Fの問題は水面下では既に決まっていた事案で、表面化した時には手遅れの状態だった。横浜Fサポーターには正に寝耳に水で、やり場の無い憤りを抱えたサポーターたちは、川淵チェアマンと直談判という異例の行動に出る。 通常ならば経営破綻や累積赤字を続けるクラブにはトップリーグから下部リーグに降格させる罰則を科され、運営体制を再編成した資料を協会に提出するのが常道である。突然トップリーグのクラブチームが消滅するというのは殆ど例が無い。この騒動は横浜マリノスにフリューゲルスのFを入れた「横浜F・マリノス」と名称変更し、全日空から年間数億円の資金をマリノスに拠出する事で事態は収拾する。実際のところ、横浜マリノスの親会社である日産自動車も当時経営難に陥っており、この合併には「運営資金を1チームに集約することで共倒れを防ぐ」側面もあった。 川淵にとってもこの合併劇は「チェアマン在籍時、最大の危機だった」と回想しており、チェアマン権限を無理に行使して存続させると日産・全日空両社の社長の顔を潰す事になり、また人気低迷当時、横浜Fを発端にしたクラブの連鎖消滅という最悪のシナリオの可能性もあった。川淵は「どうして存続できなかったのか」「両社の社長に会っていればもしかしたら」と訊ねられると未だに落ち込むという。 バランスシート [編集] 川淵はJリーグチェアマン在任中に「クラブごとの収支を公表する」と各クラブの社長と約束していた。ただ約束を取り付けるまではクラブチームは出資企業からの援助額が世間に晒される上「自由に商売させない上に、懐具合まで探るのか」と猛反発を喰らうが、上述の横浜Fの合併が発端で諮問委員会が作られ「5年後には全ての数字をオープンにする」と全実行委員に了承させる事になる。最終的に2005年からJリーグのチーム別経営情報の公開が行われている。 ジーコ監督 [編集] 2002年にフィリップ・トルシエが退任した後のサッカー日本代表監督選考でブルーノ・メツ、アーセン・ベンゲルなどの候補が挙げられていた(ただし、両監督ともクラブとの契約があり、実現性は低かった)が、候補の中にジーコの名前は無かった。川淵は2002年W杯におけるジーコの論旨に刮目していて「ジーコはどうだろう? 一度連絡してみよう」と提案しアポイントしたところジーコ本人も乗り気でそのまま代表監督に就任する。ただ、この鶴の一言により理事達が阿諛追従したのか、川淵がごり押ししたのかは不明ではあるものの、2006W杯での結果も含め、批判の俎上に挙げられる。 オシム騒動 [編集] 1次リーグ敗退という結果でワールドカップドイツ大会から選手達が帰国した2006年6月24日の記者会見上において、川淵はジェフユナイテッド市原・千葉監督(当時)イビチャ・オシムがジーコ日本代表監督の後任候補の一人として交渉中であることをマスコミの集まる中で示唆する発言を行った。尚、この記者会見の裏で田嶋幸三(当時・技術委員長)から「世紀の失言」と釘を刺される。この事にジェフ側は交渉の事実を否定したが、翌日になってジェフ社長淀川隆博が交渉の事実を認めた。なし崩し的に監督を横取りされたような形となった一部ジェフサポーターがTVインタビューにて不満を見せ、また大きな物議を醸す。結果、マスコミの関心は「ジーコ・川淵体制の総括」よりもオシム新体制へと集まり、サッカー専門誌などでは協会に対して事の経緯と顛末に苦言を呈する記事が載った。 しかし、このオシム騒動には伏線があり、ジーコ監督が地区予選を突破、所用で協会に立ち寄った淀川隆博は大喜び。淀川のあまりのはしゃぎ様に川淵が感想を訊ねると「もし2連敗でもしたら、うちのオシムを寄越せと言うと思った」と言い、川淵も「ようわかっとるじゃないか」と二人で大笑いになる。 川淵の会長解任を求めるデモの様子。 2006年8月9日 解任デモ [編集] FIFAワールドカップ・ドイツ大会の本大会後から主にインターネット上で川淵会長の解任を求める声が活発になり、2006年8月9日に国立競技場で開催された国際親善試合トリニダード・トバゴ戦の試合前後にはとうとう400-500人前後の人々が川淵会長の解任を求めるデモ行進にまで発展した。 PR |
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