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大久保 嘉人(おおくぼ よしと、1982年6月9日 - )は、福岡県京都郡苅田町出身でJリーグ・ヴィッセル神戸所属のプロサッカー選手。ポジションはフォワード、ミッドフィールダー。
目次 [非表示] 1 来歴 1.1 ユース時代 1.2 セレッソ大阪時代 1.3 RCDマジョルカ時代 1.4 セレッソ大阪時代 (第2期)・ヴィッセル神戸時代 1.5 VfLヴォルフスブルク時代 1.6 ヴィッセル神戸時代 (第2期) 2 評価・プレースタイル 3 人物・エピソード 4 所属クラブ 5 個人成績 6 チームタイトル 7 個人タイトル 8 代表歴 8.1 出場大会など 8.2 試合数 8.3 ゴール 9 出版 9.1 関連書籍 10 脚注 11 関連項目 12 外部リンク 来歴 [編集] ユース時代 [編集] 幼少時は父親が購入したペレやディエゴ・マラドーナのビデオを繰り返し見たり、父親と一緒に釣りに行ったり野球に親しんでいた[1]。小学校3年次に苅田サッカースポーツ少年団に入団し、本格的にサッカーを始める[2]。当初はストッパーの位置でプレーしていたが、小学校6年次よりフォワードの位置でプレーするようになった[3]。1994年にはU-12福岡県選抜チームに選出された[2]一方で陸上競技にも取り組み、全国小学生陸上競技交流大会に出場した他[1]、鹿島アントラーズと横浜マリノスとの試合の前座で、北九州市選抜チームの一員として福岡県の別のチームと対戦した際に5得点を挙げ、鹿島サポーターから「大久保」コールをされたという経験もした[1]。小学校卒業後は長崎県に渡り国見町立国見中学校に入学[3]。長崎県立国見高等学校サッカー部総監督であった小嶺忠敏が中高一貫でサッカーの指導をするために作った「小嶺アカデミースクール」に入るためであった[1]。 国見中学校では2、3年とも全国大会ベスト8に入り、またU-15長崎県選抜チームに選出された。[2]。 1998年に国見高等学校に進学。2年生でレギュラーを獲得し、3年次の2000年、松橋章太らとともにインターハイ、国民体育大会、全国高等学校サッカー選手権大会でいずれも優勝し、高校三冠を達成した[4]。インターハイでは10得点、高校選手権では8得点を挙げてそれぞれ大会得点王を獲得した[5]。天皇杯全日本サッカー選手権大会には、2年次 (1999年度) ・3年次 (2000年度) の2度出場した他、U-19日本代表に選出されてAFCユース選手権2000にも出場した[5]。 セレッソ大阪時代 [編集] 複数のJクラブが争奪戦を展開の末、セレッソ大阪へ入団発表。同年3月17日に途中交代によりJリーグにデビュー。 初ゴールは4月4日に開催されたヤマザキナビスコカップ ジュビロ磐田戦である。 ルーキーイヤーである2001年には20試合出場2得点という成績で終え、シーズン中の負傷により、2001 FIFAワールドユース選手権への出場も叶わなかった。 同年度終了時点でセレッソ大阪は総合成績で16位となり、2部リーグ (J2) へ降格も残留を選択した。 2002年には29試合に出場し18得点を挙げ、当時アルビレックス新潟所属のマルクスに次ぐ得点ランキング2位の成績を修めた[6]。大久保の活躍もありセレッソ大阪はリーグ戦最終順位2位となり、J1へと復帰した。 2003年度は1st、2nd合計24試合に出場し16得点を挙げた他、12月10日には、同年度AFCヤング・プレーヤー・オブ・ザ・イヤーを受賞した[7]。また同年5月31日に韓国代表との国際親善試合に、65分から鈴木隆行と交代して出場しフル代表にデビュー。しかし同年12月10日開催の東アジアサッカー選手権2003決勝大会 韓国戦に出場中、15分、18分と立て続けに警告を受け退場処分となり、その後しばらくフル代表から遠ざかる事となった。 2004年7月、アテネオリンピックに臨むU-23日本代表に選出される。グループリーグ3試合全てに出場し、パラグアイ戦では81分[8]、ガーナ戦では37分に[9]それぞれ得点を挙げたものの、日本は1勝2敗の成績のグループ最下位となり、グループステージ敗退となった。 RCDマジョルカ時代 [編集] 2004年11月、スペイン・リーガエスパニョーラ所属のRCDマジョルカへの期限付き移籍が発表された。 翌2005年1月9日に行われたデポルティーボ・ラ・コルーニャ戦でリーガ・エスパニョーラにデビュー、この試合で63分に得点を挙げた他[10]56分の先制点もアシスト。[2]。しかしこの試合で負傷[11]。出場機会を失っていたが終盤に復帰し、アスレティック・ビルバオ戦、デポルティーボ・ラ・コルーニャ戦でそれぞれ1得点ずつ挙げ[12][13]、マジョルカの残留に貢献した[14]。同年6月に期限付き移籍期間が延長される事となった[15]。2005-06年度は合計26試合に出場して2得点を挙げたが、レンタル移籍の契約は延長されず、シーズン終了後退団する事となった。 セレッソ大阪時代 (第2期)・ヴィッセル神戸時代 [編集] マジョルカでの契約が終了した2006年6月、セレッソ大阪への復帰が発表された[16]。シーズン終了まで21試合出場し6得点を挙げたが、セレッソ大阪はJ2へ降格決定。J1でのプレー機会を求めヴィッセル神戸へ移籍した。[17] 8月にはカメルーン代表との国際親善試合で約1年10ヶ月ぶりに日本代表に復帰。[18]、10月に行われたエジプト代表との試合で2得点を挙げた[19]。これが日本代表における初得点となった。 VfLヴォルフスブルク時代 [編集] 2008年末からオファーが来ていたドイツのVfLヴォルフスブルクへの移籍が取り沙汰された。当初、ヴォルフスブルクとは金銭面で折り合いがつかなかったが「(当時の監督であった)マガト監督が望んでくれていること」[20]などの要因から移籍を望んだ本人の意向に添える形で、神戸側が最終的に譲歩し、推定2億5000万円[21]の移籍金をヴォルフスブルクが支払い、完全移籍することが2009年1月3日に決定した[22]。 2008-09年度シーズンにおいて、ヴォルフスブルクは史上初となるブンデスリーガ、ドイツカップ優勝[23]を経験するが、大久保自身は、グラフィッチやエディン・ジェコが好調だった[24]こともあり、出場機会を得ることができなかった。シーズン終了後、マガトの退任、ワールドカップ南アフリカ大会出場へ向け、試合への出場機会を求め神戸復帰[20]。 ヴィッセル神戸時代 (第2期) [編集] 2009年6月16日、神戸へ復帰が決定[25]。 2010年5月10日、W杯南アフリカ大会に臨む代表メンバーに選出。強化試合として行われた韓国戦[26]、イングランド戦[27]、コートジボワール戦[28]に出場し。本大会ではグループリーグ三試合と決勝トーナメント一回戦に左サイドハーフとして先発出場し、日本の2大会ぶりとなる決勝トーナメント進出に貢献した。 評価・プレースタイル [編集] この節の内容に関する文献や情報源が必要です。ご存じの方はご提示ください。出典を明記するためにご協力をお願いします。このタグは2010年8月に貼り付けられました。 この節には「独自研究」に基づいた記述が含まれているおそれがあります。信頼可能な解釈、評価、分析、総合の根拠となる出典を示してください。このタグは2010年9月に貼り付けられました。 ゴールへの執念と動物のような身体能力を武器にゴールへ迫る。気持ちを前面に出したプレーをする選手。ドリブルが得意とされるが、むしろ瞬発力を生かし、一瞬のキレで相手をかわしてのチャンスメイク、フィニッシュを得意としている。フィニッシュのスタイルとしては、ディフェンダーを抜き切る前にペナルティエリア手前から放つミドルシュートで決めたゴールが多く見られる。ヘディングの強さもあり、ペナルティエリアの内外で脅威になれる選手である。ディフェンスラインの裏を取ってキーパーを余裕をもってループシュートでかわして決める姿を見せることもある。 小柄ではあるが、スピードもさることながら競り合いに負けないフィジカルの強さがあり、時に大型選手にはっきり競り勝ってのヘディングによる得点も見せる。またオフザボールの動きに独特の感性があり、スペースを造る動きができる選手である。どちらかというと持久力系の体質ではないと思われるがプレッシングは激しい。ポジションとしては1.5列目を得意とするタイプの選手であるが、2007年シーズンの神戸では、松田浩監督との話し合いで決定したという左サイドMFとしてのプレーに適合、10得点をあげた。日本代表においても左サイドのMFとして起用されている。クラブチームでは、登録こそFWだが実際にはMFに近いポジションでプレーする形が多くみられ、得点するという本来の仕事に留まらないマルチな活躍ぶりを見せて、まさにチームをけん引している。 ウィークポイントとして、主にJリーグの試合中に、判定への異議などで不必要な警告を受けることがあり、チームが上手くいかないときや、怪しい判定のファウルなどに直面した際の、精神面のコントロールが上手でないことが挙げられる。近年は減少傾向だが、2010年現在、Jリーグにおいてレッドカードによる退場は現役最多であり、ドラガン・ストイコビッチに次いで歴代2位。しかし、ワールドカップ直前の試合の中継で解説者として登場した、国見高時代に大久保を指導した山野孝義の弁によると、高校時代には1枚も警告を受けたことがないという。 人物・エピソード [編集] 2004年12月に結婚[29]。2008年1月5日にホームズスタジアム神戸内の施設にて結婚式を挙げ[30]、その際スタジアム内にて夫人側のチームとセレモニーマッチを行った[31]。2005年に長男が[2]、2010年には次男が誕生した[32]。 PR |
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