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【2024/11/28 07:38 】 |
大黒将志
大黒 将志(おおぐろ まさし、1980年5月4日 - )は、大阪府豊中市出身でJリーグディビジョン1(J1)のFC東京に所属するサッカー選手。ポジションはフォワード。
目次 [非表示]
1 プレースタイル
2 来歴
2.1 ユース時代(-1998年)
2.2 Jリーグ(1999年-)
2.3 海外移籍(2006年-)
2.4 Jリーグ復帰後(2008年-)
3 所属クラブ
4 個人成績
5 代表歴
5.1 ゴール
6 タイトル
6.1 クラブ
6.2 個人
7 CM
8 人物・エピソード
8.1 背番号について
9 関連項目
10 脚注
11 外部リンク
プレースタイル [編集]

フィリッポ・インザーギに憧れるようにオフ・ザ・ボールの動きに優れ、またドリブルやパスなども器用にこなす。ミッドフィールダーとしての経験もある。シュート技術が高く、アクロバティックなダイレクトシュートなどバリエーションが豊富。左右両足から放つ強烈なミドルシュートも武器。
来歴 [編集]

ユース時代(-1998年) [編集]
小学1年次より豊中SSに所属し、3年次からは元日本代表FWの釜本邦茂が代表を勤めていた釜本FC(ガンバ大阪ジュニアの前身)でもプレー。4年次からは、釜本FCより移管されたガンバ大阪ジュニアでのみプレー。
中学入学と同時にガンバ大阪ジュニアユースに昇格、高校進学と同時にガンバ大阪ユースへと昇格した生粋の生え抜き選手である。ユースチーム所属時にはFWとMFでプレー。高校3年次にFWとして定着し、ユース同期である二川孝広とともにクラブユース選手権を制した。その後に開催された高円宮杯全日本ユースサッカー選手権 (U-18)大会では、決勝戦に進出し藤枝東高校と対戦。その試合は今でもファンの間では語り草となる激戦となったが、惜しくも2-3で敗戦し準優勝となった。そのころから豪快なゴールを決め、将来有望なFWとして期待を集めていた。
Jリーグ(1999年-) [編集]
1999年からガンバ大阪トップチームに昇格。
2001年、試合出場経験を積むために自ら志願してコンサドーレ札幌にレンタル移籍するが、ポジションを奪うことは出来ず翌年ガンバに復帰。復帰当初は中盤の攻撃的なポジションで起用されていたが、ユース時代からの本来のポジションであるFWでサッカー選手として最後の勝負をさせてほしいと西野朗監督に直訴しFWとして復活。2004年に才能が開花し、Jリーグ得点ランク2位、日本人選手最多となる20得点[1]を挙げた[2]。
Jリーグでの活躍が認められ、2005年には得点力不足と嘆かれていたジーコ監督率いる日本代表に初選出。代表として2戦目となった2月9日のアジア最終予選・対北朝鮮戦で後半残り10分から途中出場し、後半ロスタイムに決勝ゴールを挙げた。この試合のテレビ中継の瞬間最高視聴率が57.7%(関東地区)を記録したこともあり、その知名度が瞬く間に急上昇した。日本代表では2005年の1年間で最多となる5得点を挙げている。またこの年Jリーグではアラウージョ、フェルナンジーニョと組んでガンバの攻撃の核としてフル回転。リーグ6位の16得点を上げ、ガンバ大阪のJリーグ初優勝に貢献した。
大黒天と名前が同じ文字であることから「大黒様」「大黒神」と呼ばれる事も多く、また、ガンバのホームタウン・吹田市にあるガンバ大阪オフィシャルショップ内にはその大黒天にあやかった「ガンバ大黒(だいこく)神社」が2005年3月23日に建立された。2006年に移籍となったが、北千里サティに大黒神社の大黒像が移籍後も残っている。
海外移籍(2006年-) [編集]
2006年1月には日本企業「インデックス」がオーナーのフランスのクラブチーム「グルノーブル・フット38」(フランスリーグ2部所属)へ完全移籍。5試合のフル出場を含め19試合6得点(2005-06:17試合5得点、2006-07:2試合1得点)。同年5月、ワールドカップドイツ大会日本代表メンバーに選出、グループリーグ3試合に全て途中出場した。しかし、出場時間は短く(オーストラリア戦1分、クロアチア戦5分、ブラジル戦24分)、得点は挙げられなかった。
同年8月、ヨーロッパの移籍期限間近である8月31日にセリエAのトリノへの移籍が決定。大黒自身の以前からの夢であったセリエAへの移籍が実現されたが、練習試合で得点を重ねアピールするも公式戦ではノーゴールに終わり、イタリアでの挑戦は消化不良に終わった。なお、2006年当時のトリノFCの監督は、現日本代表監督のアルベルト・ザッケローニであった。
Jリーグ復帰後(2008年-) [編集]
2008年6月30日、東京ヴェルディに完全移籍で加入することが発表され日本復帰。FCポルトへ移籍したエースFWフッキの穴を埋める事が期待されたが、チームにフィットするのに時間を要したこともあり、チームは低迷、J2降格を経験。翌2009年も東京Vに残留し、J2を舞台に21ゴールを挙げたが、チームの親会社変更など雑音も多くJ1昇格はならなかった。
2010年、東京Vの経営難により移籍を余儀なくされるも、移籍金が高額ということもあり完全移籍ではなく、レンタル移籍でJ2の横浜FCへ。2度のハットトリックを達成するなど[3]16試合で12得点を挙げ、前年に続きJ2では別格の実力を見せた。
ワールドカップ開催によるJリーグ中断期間中の同年6月に、J1・FC東京へ再びレンタル移籍(保有権は東京Vのまま)。FC東京ではチームの主力となり、同僚の羽生直剛は、「エゴイスティックなタイプかと思ったが、周囲を生かしてくれるのでやりやすい」とNHKのサッカー中継のインタビューでコメントしている。8月4日に開催されたスルガ銀行チャンピオンシップでは、対戦相手のLDUキトのエドガルド・バウサ監督に特に注意すべき選手として警戒されていたが[4]、試合終了間際に同点ゴールを決め、クラブのタイトル獲得に貢献した。
所属クラブ [編集]

ユース経歴
1987年 - 1989年 豊中SS(豊中市立上野小学校)
1989年 - 1992年 釜本FC/ガンバ大阪ジュニア[5] (豊中市立上野小学校)
1993年 - 1995年 ガンバ大阪ジュニアユース(豊中市立第十一中学校)
1996年 - 1998年 ガンバ大阪ユース(大阪府立少路高等学校)
プロ経歴
1999年 - 2000年 ガンバ大阪
2001年 コンサドーレ札幌 (レンタル移籍)
2002年 - 2005年 ガンバ大阪
2006年1月 - 2006年8月 グルノーブル・フット38
2006年9月 - 2008年6月 トリノFC
2008年7月 - 2009年 東京ヴェルディ
2010年 - 2010年6月 横浜FC (レンタル移籍)
2010年6月 - 現在 FC東京 (レンタル移籍)
個人成績 [編集]

国内大会個人成績
年度 クラブ 背番号 リーグ リーグ戦 リーグ杯 オープン杯 期間通算
出場 得点 出場 得点 出場 得点 出場 得点
日本 リーグ戦 ナビスコ杯 天皇杯 期間通算
1999 G大阪 29 J1 11 0 2 0 0 0 13 0
2000 G大阪 29 J1 7 1 2 0 1 0 10 1
2001 札幌 17 J1 4 0 2 0 0 0 6 0
2002 G大阪 16 J1 6 1 2 1 0 0 8 2
2003 G大阪 16 J1 26 10 5 3 2 0 33 13
2004 G大阪 16 J1 30 20 7 4 2 6 39 30
2005 G大阪 16 J1 31 16 4 0 2 2 37 18
フランス リーグ戦 リーグ杯 フランス杯 期間通算
2005-06 グルノーブル 9 リーグ・ドゥ 17 5
2006-07 グルノーブル 9 リーグ・ドゥ 2 1 1 0 3 1
イタリア リーグ戦 イタリア杯 オープン杯 期間通算
2006-07 トリノ 16 セリエA 7 0 0 0 - 7 0
2007-08 トリノ 16 セリエA 3 0 1 0 - 4 0
日本 リーグ戦 ナビスコ杯 天皇杯 期間通算
2008 東京V 36 J1 14 2 - 0 0 14 2
2009 東京V 9 J2 39 21 - 0 0 39 21
2010 横浜FC 9 J2 16 12 - - 16 12
FC東京 39 J1
通算 日本 J1 129 50 23 8 7 8 159 66
日本 J2 55 33 - 0 0 55 33
フランス リーグ・ドゥ 19 6 1 0 20 6
イタリア セリエA 10 0 1 0 - 11 0
総通算 213 89
その他の国際公式戦
2010年
スルガ銀行チャンピオンシップ 1試合1得点
代表歴 [編集]

出場大会
2005年 コンフェデレーションズカップドイツ大会、東アジア選手権
2006年 2006 FIFAワールドカップ
試合数
国際Aマッチ 21試合 5得点(2005-2008)

日本代表 国際Aマッチ
年 出場 得点
2005 15 5
2006 6 0
2008 1 0
通算 22 5
ゴール [編集]
# 開催年月日 開催地 対戦国 勝敗 大会
1. 2005年2月9日 日本 朝鮮民主主義人民共和国 ○2-1 2006 FIFAワールドカップ・アジア地区予選
2. 2005年6月8日 タイ 朝鮮民主主義人民共和国 ○2-0 2006 FIFAワールドカップ・アジア地区予選
3. 2005年6月19日 ドイツ ギリシャ ○1-0 FIFAコンフェデレーションズカップ2005
4. 2005年6月22日 ドイツ ブラジル △2-2 FIFAコンフェデレーションズカップ2005
5. 2005年8月17日 日本 イラン ○2-1 2006 FIFAワールドカップ・アジア地区予選
タイトル [編集]

クラブ [編集]
ガンバ大阪ユース
日本クラブユース選手権(U-18):1回(1998年)
ガンバ大阪
Jリーグ:1回(2005年)
FC東京
スルガ銀行チャンピオンシップ:1回(2010年)
個人 [編集]
Jリーグ優秀選手賞:2回(2004年 - 2005年)
Jリーグベストイレブン:1回(2004年)
Jリーグフェアプレイ個人賞:1回(2005年)
CM [編集]

Panasonic「Strada」
『先読むナビ篇』(2005年) - 宮本恒靖との共演
『簡単ツートップ篇』(2005年) - 宮本恒靖との共演
ダイハツ「ムーヴ カスタム」 - 今年を代表するCM大賞2005 受賞
『ヒーローインタビュー篇』(2005年、2006年)
人物・エピソード [編集]

ニックネームはオグリ。少年時代、俊足だったことから、当時活躍していた競走馬・オグリキャップにちなんで付けられた。
三人兄弟の次男で本人曰く「自分は、中黒ですわ」。父親はボクシング経験者で記者によると話しかけるのも憚られるような物凄い強面との話。
ユース時代、自身のミスに反省の意味も込めて丸刈りにした所、コーチからも「もう坊主にしなくていい」と言われるほどの強面になった。
2001年に出場機会を求めてコンサドーレ札幌に移籍したものの、当時の監督である岡田武史の構想から外れ、ほとんど出場機会は与えられなかった。しかし、代表でブレイクした際のインタビューで「札幌での経験が、自分のサッカー人生において良い肥やしになった」と語っている。「あの時岡田さんに言われたことが、今の自分に本当に役に立っている」とも述べた。
岡田武史から「練習でゴールを決められない奴は、試合でもゴール出来ない」と言われ得心する。
姉さん女房である夫人は、かつて「藤原みわ」という芸名でタレント活動(田辺エージェンシー所属)をしていた。大阪のラジオ番組ではFUJIWARAやつんく♂と共演歴がある。
「二人の愛する家族」はチワワのラオウと、クリリン。名前は大好きな漫画「北斗の拳」と「ドラゴンボール」に登場するキャラクターのラオウとクリリンから付けた。
車好きとして知られている。サーキットでの走行会に参加するほどの車好きだが、日本代表選出以降はサーキット走行は自粛している。
カードゲームの「UNO」好きで、2005年には日本ウノ協会から「UNO大使」に任命された。
日本代表のメンバーとUNOをする時、初めはほとんど小笠原満男と2人でしていたが、程なく三都主アレサンドロもメンバーに加わった。その後は、日本代表に初招集された選手の緊張を解すきっかけにとUNOに誘い、コミュニケーションを計った。
「大黒選手オリジナルUNO限定版」(限定3万個)が発売されている。大黒選手が海外遠征で仲間と遊んでいるうちに考案したルールを採用し、自分が4枚ひかされる”オウンゴール”カードや全員にカードを大量にひかせる”PK”カードがオリジナルで追加されている。すでにメーカー在庫はなくなり、現在は店頭在庫のみの販売である。
2005年12月26日放映のTBS系「関口宏の東京フレンドパークIISP」に日本代表選手の一員として出演する予定だったが、壁に向かってジャンプする人気コーナー「ウォールクラッシュ」のリハーサル中に右足をひねり、大事を取って出演を見合わせた。
兄と弟もガンバ大阪ユースに所属する選手だった。弟の大黒聡はサラリーマンを辞めてまでジェフ・クラブの入団テストを受けたが、合格には至らなかった。聡はその後、2007年に徳島ヴォルティス・アマチュアへ入団したが、1年で退団した。
2006ワールドカップ開催地・ドイツへ向けて出発する空港で頭髪に「銀メッシュ」を入れて登場。オフだった前日にMF稲本潤一行き付けの美容室で銀一色ではなく所々に銀色が光る、見る角度で色が変わる派手な色に染めあげられており周囲を驚かせた。
セリエAへの移籍は、ドイツワールドカップで中田英寿にイタリア移籍を相談した所、中田の代理人を紹介されたのがきっかけとなった。
所属マネジメント事務所はサニーサイドアップ。
背番号について [編集]
ガンバ大阪時代の背番号は「16」。自身がファンである阪神タイガースの元選手・岡田彰布(前阪神監督)の現役時代の背番号と同じとあって、特別な思い入れを持っている。ちなみにコンサドーレ札幌に1年間在籍していた時の背番号は「17」であった。
日本代表としての最初の背番号は「31」。これも阪神の元選手・掛布雅之と同じ番号であり、16同様気に入っていたようである。2005年6月15日からは代表でもガンバと同じ「16」に変更。ちなみに小学生の時、掛布の自宅まで行ってサインをもらったほどのファンである。
2006年1月から8月まで所属したグルノーブルでは「9」。2006年9月から所属のトリノでは再び「16」。
2008年8月から所属の東京ヴェルディでは2008年度が「36」。2009年度は再び「9」。
2010年6月から所属するFC東京での背番号は「39」。9番が好きだったが、「9」(赤嶺真吾)「19」(大竹洋平)「29」(吉本一謙)が空いていなかったため[6]。
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【2010/11/07 20:16 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
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