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大久保 嘉人(おおくぼ よしと、1982年6月9日 - )は、福岡県京都郡苅田町出身でJリーグ・ヴィッセル神戸所属のプロサッカー選手。ポジションはフォワード、ミッドフィールダー。
目次 [非表示] 1 来歴 1.1 ユース時代 1.2 セレッソ大阪時代 1.3 RCDマジョルカ時代 1.4 セレッソ大阪時代 (第2期)・ヴィッセル神戸時代 1.5 VfLヴォルフスブルク時代 1.6 ヴィッセル神戸時代 (第2期) 2 評価・プレースタイル 3 人物・エピソード 4 所属クラブ 5 個人成績 6 チームタイトル 7 個人タイトル 8 代表歴 8.1 出場大会など 8.2 試合数 8.3 ゴール 9 出版 9.1 関連書籍 10 脚注 11 関連項目 12 外部リンク 来歴 [編集] ユース時代 [編集] 幼少時は父親が購入したペレやディエゴ・マラドーナのビデオを繰り返し見たり、父親と一緒に釣りに行ったり野球に親しんでいた[1]。小学校3年次に苅田サッカースポーツ少年団に入団し、本格的にサッカーを始める[2]。当初はストッパーの位置でプレーしていたが、小学校6年次よりフォワードの位置でプレーするようになった[3]。1994年にはU-12福岡県選抜チームに選出された[2]一方で陸上競技にも取り組み、全国小学生陸上競技交流大会に出場した他[1]、鹿島アントラーズと横浜マリノスとの試合の前座で、北九州市選抜チームの一員として福岡県の別のチームと対戦した際に5得点を挙げ、鹿島サポーターから「大久保」コールをされたという経験もした[1]。小学校卒業後は長崎県に渡り国見町立国見中学校に入学[3]。長崎県立国見高等学校サッカー部総監督であった小嶺忠敏が中高一貫でサッカーの指導をするために作った「小嶺アカデミースクール」に入るためであった[1]。 国見中学校では2、3年とも全国大会ベスト8に入り、またU-15長崎県選抜チームに選出された。[2]。 1998年に国見高等学校に進学。2年生でレギュラーを獲得し、3年次の2000年、松橋章太らとともにインターハイ、国民体育大会、全国高等学校サッカー選手権大会でいずれも優勝し、高校三冠を達成した[4]。インターハイでは10得点、高校選手権では8得点を挙げてそれぞれ大会得点王を獲得した[5]。天皇杯全日本サッカー選手権大会には、2年次 (1999年度) ・3年次 (2000年度) の2度出場した他、U-19日本代表に選出されてAFCユース選手権2000にも出場した[5]。 セレッソ大阪時代 [編集] 複数のJクラブが争奪戦を展開の末、セレッソ大阪へ入団発表。同年3月17日に途中交代によりJリーグにデビュー。 初ゴールは4月4日に開催されたヤマザキナビスコカップ ジュビロ磐田戦である。 ルーキーイヤーである2001年には20試合出場2得点という成績で終え、シーズン中の負傷により、2001 FIFAワールドユース選手権への出場も叶わなかった。 同年度終了時点でセレッソ大阪は総合成績で16位となり、2部リーグ (J2) へ降格も残留を選択した。 2002年には29試合に出場し18得点を挙げ、当時アルビレックス新潟所属のマルクスに次ぐ得点ランキング2位の成績を修めた[6]。大久保の活躍もありセレッソ大阪はリーグ戦最終順位2位となり、J1へと復帰した。 2003年度は1st、2nd合計24試合に出場し16得点を挙げた他、12月10日には、同年度AFCヤング・プレーヤー・オブ・ザ・イヤーを受賞した[7]。また同年5月31日に韓国代表との国際親善試合に、65分から鈴木隆行と交代して出場しフル代表にデビュー。しかし同年12月10日開催の東アジアサッカー選手権2003決勝大会 韓国戦に出場中、15分、18分と立て続けに警告を受け退場処分となり、その後しばらくフル代表から遠ざかる事となった。 2004年7月、アテネオリンピックに臨むU-23日本代表に選出される。グループリーグ3試合全てに出場し、パラグアイ戦では81分[8]、ガーナ戦では37分に[9]それぞれ得点を挙げたものの、日本は1勝2敗の成績のグループ最下位となり、グループステージ敗退となった。 RCDマジョルカ時代 [編集] 2004年11月、スペイン・リーガエスパニョーラ所属のRCDマジョルカへの期限付き移籍が発表された。 翌2005年1月9日に行われたデポルティーボ・ラ・コルーニャ戦でリーガ・エスパニョーラにデビュー、この試合で63分に得点を挙げた他[10]56分の先制点もアシスト。[2]。しかしこの試合で負傷[11]。出場機会を失っていたが終盤に復帰し、アスレティック・ビルバオ戦、デポルティーボ・ラ・コルーニャ戦でそれぞれ1得点ずつ挙げ[12][13]、マジョルカの残留に貢献した[14]。同年6月に期限付き移籍期間が延長される事となった[15]。2005-06年度は合計26試合に出場して2得点を挙げたが、レンタル移籍の契約は延長されず、シーズン終了後退団する事となった。 セレッソ大阪時代 (第2期)・ヴィッセル神戸時代 [編集] マジョルカでの契約が終了した2006年6月、セレッソ大阪への復帰が発表された[16]。シーズン終了まで21試合出場し6得点を挙げたが、セレッソ大阪はJ2へ降格決定。J1でのプレー機会を求めヴィッセル神戸へ移籍した。[17] 8月にはカメルーン代表との国際親善試合で約1年10ヶ月ぶりに日本代表に復帰。[18]、10月に行われたエジプト代表との試合で2得点を挙げた[19]。これが日本代表における初得点となった。 VfLヴォルフスブルク時代 [編集] 2008年末からオファーが来ていたドイツのVfLヴォルフスブルクへの移籍が取り沙汰された。当初、ヴォルフスブルクとは金銭面で折り合いがつかなかったが「(当時の監督であった)マガト監督が望んでくれていること」[20]などの要因から移籍を望んだ本人の意向に添える形で、神戸側が最終的に譲歩し、推定2億5000万円[21]の移籍金をヴォルフスブルクが支払い、完全移籍することが2009年1月3日に決定した[22]。 2008-09年度シーズンにおいて、ヴォルフスブルクは史上初となるブンデスリーガ、ドイツカップ優勝[23]を経験するが、大久保自身は、グラフィッチやエディン・ジェコが好調だった[24]こともあり、出場機会を得ることができなかった。シーズン終了後、マガトの退任、ワールドカップ南アフリカ大会出場へ向け、試合への出場機会を求め神戸復帰[20]。 ヴィッセル神戸時代 (第2期) [編集] 2009年6月16日、神戸へ復帰が決定[25]。 2010年5月10日、W杯南アフリカ大会に臨む代表メンバーに選出。強化試合として行われた韓国戦[26]、イングランド戦[27]、コートジボワール戦[28]に出場し。本大会ではグループリーグ三試合と決勝トーナメント一回戦に左サイドハーフとして先発出場し、日本の2大会ぶりとなる決勝トーナメント進出に貢献した。 評価・プレースタイル [編集] この節の内容に関する文献や情報源が必要です。ご存じの方はご提示ください。出典を明記するためにご協力をお願いします。このタグは2010年8月に貼り付けられました。 この節には「独自研究」に基づいた記述が含まれているおそれがあります。信頼可能な解釈、評価、分析、総合の根拠となる出典を示してください。このタグは2010年9月に貼り付けられました。 ゴールへの執念と動物のような身体能力を武器にゴールへ迫る。気持ちを前面に出したプレーをする選手。ドリブルが得意とされるが、むしろ瞬発力を生かし、一瞬のキレで相手をかわしてのチャンスメイク、フィニッシュを得意としている。フィニッシュのスタイルとしては、ディフェンダーを抜き切る前にペナルティエリア手前から放つミドルシュートで決めたゴールが多く見られる。ヘディングの強さもあり、ペナルティエリアの内外で脅威になれる選手である。ディフェンスラインの裏を取ってキーパーを余裕をもってループシュートでかわして決める姿を見せることもある。 小柄ではあるが、スピードもさることながら競り合いに負けないフィジカルの強さがあり、時に大型選手にはっきり競り勝ってのヘディングによる得点も見せる。またオフザボールの動きに独特の感性があり、スペースを造る動きができる選手である。どちらかというと持久力系の体質ではないと思われるがプレッシングは激しい。ポジションとしては1.5列目を得意とするタイプの選手であるが、2007年シーズンの神戸では、松田浩監督との話し合いで決定したという左サイドMFとしてのプレーに適合、10得点をあげた。日本代表においても左サイドのMFとして起用されている。クラブチームでは、登録こそFWだが実際にはMFに近いポジションでプレーする形が多くみられ、得点するという本来の仕事に留まらないマルチな活躍ぶりを見せて、まさにチームをけん引している。 ウィークポイントとして、主にJリーグの試合中に、判定への異議などで不必要な警告を受けることがあり、チームが上手くいかないときや、怪しい判定のファウルなどに直面した際の、精神面のコントロールが上手でないことが挙げられる。近年は減少傾向だが、2010年現在、Jリーグにおいてレッドカードによる退場は現役最多であり、ドラガン・ストイコビッチに次いで歴代2位。しかし、ワールドカップ直前の試合の中継で解説者として登場した、国見高時代に大久保を指導した山野孝義の弁によると、高校時代には1枚も警告を受けたことがないという。 人物・エピソード [編集] 2004年12月に結婚[29]。2008年1月5日にホームズスタジアム神戸内の施設にて結婚式を挙げ[30]、その際スタジアム内にて夫人側のチームとセレモニーマッチを行った[31]。2005年に長男が[2]、2010年には次男が誕生した[32]。 PR |
大黒 将志(おおぐろ まさし、1980年5月4日 - )は、大阪府豊中市出身でJリーグディビジョン1(J1)のFC東京に所属するサッカー選手。ポジションはフォワード。
目次 [非表示] 1 プレースタイル 2 来歴 2.1 ユース時代(-1998年) 2.2 Jリーグ(1999年-) 2.3 海外移籍(2006年-) 2.4 Jリーグ復帰後(2008年-) 3 所属クラブ 4 個人成績 5 代表歴 5.1 ゴール 6 タイトル 6.1 クラブ 6.2 個人 7 CM 8 人物・エピソード 8.1 背番号について 9 関連項目 10 脚注 11 外部リンク プレースタイル [編集] フィリッポ・インザーギに憧れるようにオフ・ザ・ボールの動きに優れ、またドリブルやパスなども器用にこなす。ミッドフィールダーとしての経験もある。シュート技術が高く、アクロバティックなダイレクトシュートなどバリエーションが豊富。左右両足から放つ強烈なミドルシュートも武器。 来歴 [編集] ユース時代(-1998年) [編集] 小学1年次より豊中SSに所属し、3年次からは元日本代表FWの釜本邦茂が代表を勤めていた釜本FC(ガンバ大阪ジュニアの前身)でもプレー。4年次からは、釜本FCより移管されたガンバ大阪ジュニアでのみプレー。 中学入学と同時にガンバ大阪ジュニアユースに昇格、高校進学と同時にガンバ大阪ユースへと昇格した生粋の生え抜き選手である。ユースチーム所属時にはFWとMFでプレー。高校3年次にFWとして定着し、ユース同期である二川孝広とともにクラブユース選手権を制した。その後に開催された高円宮杯全日本ユースサッカー選手権 (U-18)大会では、決勝戦に進出し藤枝東高校と対戦。その試合は今でもファンの間では語り草となる激戦となったが、惜しくも2-3で敗戦し準優勝となった。そのころから豪快なゴールを決め、将来有望なFWとして期待を集めていた。 Jリーグ(1999年-) [編集] 1999年からガンバ大阪トップチームに昇格。 2001年、試合出場経験を積むために自ら志願してコンサドーレ札幌にレンタル移籍するが、ポジションを奪うことは出来ず翌年ガンバに復帰。復帰当初は中盤の攻撃的なポジションで起用されていたが、ユース時代からの本来のポジションであるFWでサッカー選手として最後の勝負をさせてほしいと西野朗監督に直訴しFWとして復活。2004年に才能が開花し、Jリーグ得点ランク2位、日本人選手最多となる20得点[1]を挙げた[2]。 Jリーグでの活躍が認められ、2005年には得点力不足と嘆かれていたジーコ監督率いる日本代表に初選出。代表として2戦目となった2月9日のアジア最終予選・対北朝鮮戦で後半残り10分から途中出場し、後半ロスタイムに決勝ゴールを挙げた。この試合のテレビ中継の瞬間最高視聴率が57.7%(関東地区)を記録したこともあり、その知名度が瞬く間に急上昇した。日本代表では2005年の1年間で最多となる5得点を挙げている。またこの年Jリーグではアラウージョ、フェルナンジーニョと組んでガンバの攻撃の核としてフル回転。リーグ6位の16得点を上げ、ガンバ大阪のJリーグ初優勝に貢献した。 大黒天と名前が同じ文字であることから「大黒様」「大黒神」と呼ばれる事も多く、また、ガンバのホームタウン・吹田市にあるガンバ大阪オフィシャルショップ内にはその大黒天にあやかった「ガンバ大黒(だいこく)神社」が2005年3月23日に建立された。2006年に移籍となったが、北千里サティに大黒神社の大黒像が移籍後も残っている。 海外移籍(2006年-) [編集] 2006年1月には日本企業「インデックス」がオーナーのフランスのクラブチーム「グルノーブル・フット38」(フランスリーグ2部所属)へ完全移籍。5試合のフル出場を含め19試合6得点(2005-06:17試合5得点、2006-07:2試合1得点)。同年5月、ワールドカップドイツ大会日本代表メンバーに選出、グループリーグ3試合に全て途中出場した。しかし、出場時間は短く(オーストラリア戦1分、クロアチア戦5分、ブラジル戦24分)、得点は挙げられなかった。 同年8月、ヨーロッパの移籍期限間近である8月31日にセリエAのトリノへの移籍が決定。大黒自身の以前からの夢であったセリエAへの移籍が実現されたが、練習試合で得点を重ねアピールするも公式戦ではノーゴールに終わり、イタリアでの挑戦は消化不良に終わった。なお、2006年当時のトリノFCの監督は、現日本代表監督のアルベルト・ザッケローニであった。 Jリーグ復帰後(2008年-) [編集] 2008年6月30日、東京ヴェルディに完全移籍で加入することが発表され日本復帰。FCポルトへ移籍したエースFWフッキの穴を埋める事が期待されたが、チームにフィットするのに時間を要したこともあり、チームは低迷、J2降格を経験。翌2009年も東京Vに残留し、J2を舞台に21ゴールを挙げたが、チームの親会社変更など雑音も多くJ1昇格はならなかった。 2010年、東京Vの経営難により移籍を余儀なくされるも、移籍金が高額ということもあり完全移籍ではなく、レンタル移籍でJ2の横浜FCへ。2度のハットトリックを達成するなど[3]16試合で12得点を挙げ、前年に続きJ2では別格の実力を見せた。 ワールドカップ開催によるJリーグ中断期間中の同年6月に、J1・FC東京へ再びレンタル移籍(保有権は東京Vのまま)。FC東京ではチームの主力となり、同僚の羽生直剛は、「エゴイスティックなタイプかと思ったが、周囲を生かしてくれるのでやりやすい」とNHKのサッカー中継のインタビューでコメントしている。8月4日に開催されたスルガ銀行チャンピオンシップでは、対戦相手のLDUキトのエドガルド・バウサ監督に特に注意すべき選手として警戒されていたが[4]、試合終了間際に同点ゴールを決め、クラブのタイトル獲得に貢献した。 所属クラブ [編集] ユース経歴 1987年 - 1989年 豊中SS(豊中市立上野小学校) 1989年 - 1992年 釜本FC/ガンバ大阪ジュニア[5] (豊中市立上野小学校) 1993年 - 1995年 ガンバ大阪ジュニアユース(豊中市立第十一中学校) 1996年 - 1998年 ガンバ大阪ユース(大阪府立少路高等学校) プロ経歴 1999年 - 2000年 ガンバ大阪 2001年 コンサドーレ札幌 (レンタル移籍) 2002年 - 2005年 ガンバ大阪 2006年1月 - 2006年8月 グルノーブル・フット38 2006年9月 - 2008年6月 トリノFC 2008年7月 - 2009年 東京ヴェルディ 2010年 - 2010年6月 横浜FC (レンタル移籍) 2010年6月 - 現在 FC東京 (レンタル移籍) 個人成績 [編集] 国内大会個人成績 年度 クラブ 背番号 リーグ リーグ戦 リーグ杯 オープン杯 期間通算 出場 得点 出場 得点 出場 得点 出場 得点 日本 リーグ戦 ナビスコ杯 天皇杯 期間通算 1999 G大阪 29 J1 11 0 2 0 0 0 13 0 2000 G大阪 29 J1 7 1 2 0 1 0 10 1 2001 札幌 17 J1 4 0 2 0 0 0 6 0 2002 G大阪 16 J1 6 1 2 1 0 0 8 2 2003 G大阪 16 J1 26 10 5 3 2 0 33 13 2004 G大阪 16 J1 30 20 7 4 2 6 39 30 2005 G大阪 16 J1 31 16 4 0 2 2 37 18 フランス リーグ戦 リーグ杯 フランス杯 期間通算 2005-06 グルノーブル 9 リーグ・ドゥ 17 5 2006-07 グルノーブル 9 リーグ・ドゥ 2 1 1 0 3 1 イタリア リーグ戦 イタリア杯 オープン杯 期間通算 2006-07 トリノ 16 セリエA 7 0 0 0 - 7 0 2007-08 トリノ 16 セリエA 3 0 1 0 - 4 0 日本 リーグ戦 ナビスコ杯 天皇杯 期間通算 2008 東京V 36 J1 14 2 - 0 0 14 2 2009 東京V 9 J2 39 21 - 0 0 39 21 2010 横浜FC 9 J2 16 12 - - 16 12 FC東京 39 J1 通算 日本 J1 129 50 23 8 7 8 159 66 日本 J2 55 33 - 0 0 55 33 フランス リーグ・ドゥ 19 6 1 0 20 6 イタリア セリエA 10 0 1 0 - 11 0 総通算 213 89 その他の国際公式戦 2010年 スルガ銀行チャンピオンシップ 1試合1得点 代表歴 [編集] 出場大会 2005年 コンフェデレーションズカップドイツ大会、東アジア選手権 2006年 2006 FIFAワールドカップ 試合数 国際Aマッチ 21試合 5得点(2005-2008) 日本代表 国際Aマッチ 年 出場 得点 2005 15 5 2006 6 0 2008 1 0 通算 22 5 ゴール [編集] # 開催年月日 開催地 対戦国 勝敗 大会 1. 2005年2月9日 日本 朝鮮民主主義人民共和国 ○2-1 2006 FIFAワールドカップ・アジア地区予選 2. 2005年6月8日 タイ 朝鮮民主主義人民共和国 ○2-0 2006 FIFAワールドカップ・アジア地区予選 3. 2005年6月19日 ドイツ ギリシャ ○1-0 FIFAコンフェデレーションズカップ2005 4. 2005年6月22日 ドイツ ブラジル △2-2 FIFAコンフェデレーションズカップ2005 5. 2005年8月17日 日本 イラン ○2-1 2006 FIFAワールドカップ・アジア地区予選 タイトル [編集] クラブ [編集] ガンバ大阪ユース 日本クラブユース選手権(U-18):1回(1998年) ガンバ大阪 Jリーグ:1回(2005年) FC東京 スルガ銀行チャンピオンシップ:1回(2010年) 個人 [編集] Jリーグ優秀選手賞:2回(2004年 - 2005年) Jリーグベストイレブン:1回(2004年) Jリーグフェアプレイ個人賞:1回(2005年) CM [編集] Panasonic「Strada」 『先読むナビ篇』(2005年) - 宮本恒靖との共演 『簡単ツートップ篇』(2005年) - 宮本恒靖との共演 ダイハツ「ムーヴ カスタム」 - 今年を代表するCM大賞2005 受賞 『ヒーローインタビュー篇』(2005年、2006年) 人物・エピソード [編集] ニックネームはオグリ。少年時代、俊足だったことから、当時活躍していた競走馬・オグリキャップにちなんで付けられた。 三人兄弟の次男で本人曰く「自分は、中黒ですわ」。父親はボクシング経験者で記者によると話しかけるのも憚られるような物凄い強面との話。 ユース時代、自身のミスに反省の意味も込めて丸刈りにした所、コーチからも「もう坊主にしなくていい」と言われるほどの強面になった。 2001年に出場機会を求めてコンサドーレ札幌に移籍したものの、当時の監督である岡田武史の構想から外れ、ほとんど出場機会は与えられなかった。しかし、代表でブレイクした際のインタビューで「札幌での経験が、自分のサッカー人生において良い肥やしになった」と語っている。「あの時岡田さんに言われたことが、今の自分に本当に役に立っている」とも述べた。 岡田武史から「練習でゴールを決められない奴は、試合でもゴール出来ない」と言われ得心する。 姉さん女房である夫人は、かつて「藤原みわ」という芸名でタレント活動(田辺エージェンシー所属)をしていた。大阪のラジオ番組ではFUJIWARAやつんく♂と共演歴がある。 「二人の愛する家族」はチワワのラオウと、クリリン。名前は大好きな漫画「北斗の拳」と「ドラゴンボール」に登場するキャラクターのラオウとクリリンから付けた。 車好きとして知られている。サーキットでの走行会に参加するほどの車好きだが、日本代表選出以降はサーキット走行は自粛している。 カードゲームの「UNO」好きで、2005年には日本ウノ協会から「UNO大使」に任命された。 日本代表のメンバーとUNOをする時、初めはほとんど小笠原満男と2人でしていたが、程なく三都主アレサンドロもメンバーに加わった。その後は、日本代表に初招集された選手の緊張を解すきっかけにとUNOに誘い、コミュニケーションを計った。 「大黒選手オリジナルUNO限定版」(限定3万個)が発売されている。大黒選手が海外遠征で仲間と遊んでいるうちに考案したルールを採用し、自分が4枚ひかされる”オウンゴール”カードや全員にカードを大量にひかせる”PK”カードがオリジナルで追加されている。すでにメーカー在庫はなくなり、現在は店頭在庫のみの販売である。 2005年12月26日放映のTBS系「関口宏の東京フレンドパークIISP」に日本代表選手の一員として出演する予定だったが、壁に向かってジャンプする人気コーナー「ウォールクラッシュ」のリハーサル中に右足をひねり、大事を取って出演を見合わせた。 兄と弟もガンバ大阪ユースに所属する選手だった。弟の大黒聡はサラリーマンを辞めてまでジェフ・クラブの入団テストを受けたが、合格には至らなかった。聡はその後、2007年に徳島ヴォルティス・アマチュアへ入団したが、1年で退団した。 2006ワールドカップ開催地・ドイツへ向けて出発する空港で頭髪に「銀メッシュ」を入れて登場。オフだった前日にMF稲本潤一行き付けの美容室で銀一色ではなく所々に銀色が光る、見る角度で色が変わる派手な色に染めあげられており周囲を驚かせた。 セリエAへの移籍は、ドイツワールドカップで中田英寿にイタリア移籍を相談した所、中田の代理人を紹介されたのがきっかけとなった。 所属マネジメント事務所はサニーサイドアップ。 背番号について [編集] ガンバ大阪時代の背番号は「16」。自身がファンである阪神タイガースの元選手・岡田彰布(前阪神監督)の現役時代の背番号と同じとあって、特別な思い入れを持っている。ちなみにコンサドーレ札幌に1年間在籍していた時の背番号は「17」であった。 日本代表としての最初の背番号は「31」。これも阪神の元選手・掛布雅之と同じ番号であり、16同様気に入っていたようである。2005年6月15日からは代表でもガンバと同じ「16」に変更。ちなみに小学生の時、掛布の自宅まで行ってサインをもらったほどのファンである。 2006年1月から8月まで所属したグルノーブルでは「9」。2006年9月から所属のトリノでは再び「16」。 2008年8月から所属の東京ヴェルディでは2008年度が「36」。2009年度は再び「9」。 2010年6月から所属するFC東京での背番号は「39」。9番が好きだったが、「9」(赤嶺真吾)「19」(大竹洋平)「29」(吉本一謙)が空いていなかったため[6]。 |
柳葉敏郎のことを(ジョニー)と呼ぶ。2003年、『ウンナンの気分は上々』で哀川が勝俣と内村への復讐をするため柳葉を呼び寄せている。『とんぼ』で俳優デビューする際、先に俳優として活動していた柳葉に相談にのってもらったことを『メントレG』で語っている。またテレビ番組内では、柳葉と共に勝俣州和や中野英雄といった一世風靡時代の後輩を子分のように扱っている。
芸能界では腕相撲が非常に強い事で有名だと、上記にある『ウンナンの気分は上々』内において明かされた。事実同番組内において、内村光良・ゴルゴ松本・有田哲平・勝俣州和の4人を相手に圧倒的な大差をつけて勝利した。しかし後に『にじいろジーン』内で山口智充に負け、その時は「もう一回やろう」と食い下がり、もう1戦したが連敗した。 ぐるぐるナインティナインのクワガタムシ・カブトムシ採集の企画でゲスト出演の際、子供のようにはしゃいで採集していた。哀川は趣味だと言っている。『天才!志村どうぶつ園』にゲスト出演した際には「家でカブトムシを40匹くらい、クワガタムシを30匹くらい飼っている」と発言している。 車好きで、映画『SS エスエス』出演の際、三菱・スタリオン4WDラリーを見た時「鳥肌が立った」とコメント(後に、ラリージャパン2007開会式に映画宣伝を兼ねゲスト出演)。またラリー出場ドキュメント撮影のため、国際C級ライセンス(レース除外)を取得、映画『SS』に登場したフォード・フィエスタSTでラリージャパン2008にプライベータ応募で出走。DAY2でリタイアしたものの、スーパーラリー規定によりペナルティ加算を受け復帰し、その後は走り切った。[2]同じくドキュメント撮影[3]の為、2009年の第87回パイクスピーク・インターナショナル・ヒルクライムに出場、細かく競技・車種・排気量がクラス分けされている事で知られる同大会の「オープンクラス(市販車改造クラス)」にて5位(全7台。2台リタイヤ)[4]。この時はコ・ドライバーにドライビングコーチ役のプロラリードライバーの奴田原文雄が搭乗した。 小笠原和彦(元極真会館)が覆面レスラーのゼブラーマンに扮してハッスルに登場した際、応援するため会場に現れた。 哀川のマネをする、ものまねタレントの哀小出翔の事を認めており、この芸名も哀川が映画で共演した際に命名した。また、有吉弘行のモノマネも認めている。 受賞歴 [編集] 第8回 日本映画プロフェッショナル大賞 最優秀主演男優賞(1998年) 第1回 DVシネマ大賞 最優秀主演男優賞(2002年) 第13回 日本映画批評家大賞 ベストパーソナリティ賞(2004年) 第17回 日本メガネドレッサー賞 サングラス部門 (2004年) ベストファーザー賞2004(2004年) 第28回 日本アカデミー賞 優秀主演男優賞(2005年) 出演 [編集] テレビドラマ [編集] あなたに首ったけ(1983年4月4日~4月29日、NHK) ばら色の人生(1987年4月8日~7月8日、NHK) ベスト・フレンド(1987年4月15日、TBS系列) とんぼ(1988年10月7日~11月25日、TBS系列) - 水戸常吉 役 ブル-カナリア (1989年1月14日、日本テレビ系列) 湘南物語(1989年5月13日~7月8日、日本テレビ系列) 男たちの運動会(1989年9月6日~12月6日、NHK) 哀愁の玉ねぎボ-イ(1989年11月11日、TBS系列) さかなでバーのクリスマス(1989年12月24日、フジテレビ系列) 美空ひばり物語(1989年12月30日、TBS系列) 高円寺純情商店街(1990年4月12日~5月3日、テレビ朝日系列) 勝海舟(1990年12月30・31日、日本テレビ系列、NTV年末時代劇スペシャル) - 岡田以蔵 役 しゃぼん玉(1991年10月10日~12月19日、フジテレビ系列、木曜劇場) - 中村三郎 役 源義経(1991年12月31日、日本テレビ系列、NTV年末時代劇スペシャル) - 佐藤継信 役 琉球の風(1993年1月10日~6月13日、NHK、NHK大河ドラマ) - 尚宏 役 新幹線物語'93夏(1993年7月6日~9月21日、TBS系列) - 沢見譲次(東海道新幹線車掌) 役 伊豆温泉めぐり殺人ルート(1994年、TBS系列、月曜ドラマスペシャル) 英二ふたたび(1997年1月24日、フジテレビ系列、金曜エンタテイメント) - 水戸常吉 役 OUT〜妻たちの犯罪〜(1999年10月12日~12月21日、フジテレビ系列) - 十文字彬 役 木更津キャッツアイ「第3・5話」(2002年2月1・15日、TBS系列) - 哀川翔(本人) 役 ぼくが地球を救う(2002年7月~9月、TBS系列) - 大門十三 役 武蔵 MUSASHI(2003年1月5日~12月7日、NHK、NHK大河ドラマ) - 半瓦弥治兵衛 役 東京湾景(2004年7月5日~9月13日、フジテレビ系列) - 大杉健 役 四谷くんと大塚くん~天才少年探偵登場の巻 (2004年7月21日、TBS系列、水曜プレミア) - 主演・黒崎五郎(刑事) 役 らんぼう(2006年1月17日、日本テレビ系列、DRAMA COMPLEX、【W主演:坂口憲二】) - 主演・大浦久(刑事) 役 クロサギ(2006年4月14日~6月23日、TBS系列、金曜ドラマ) - 神志名将(刑事) 役 潜入刑事 らんぼう2(2007年2月6日、日本テレビ系列、火曜ドラマゴ-ルド) 熱血教師SP「第2夜夢の見つけ方教えたる!」(2008年3月8日、フジテレビ系列、土曜プレミアム) - 秋山国広 役 モンスターペアレント「第4話」(2008年7月22日、フジテレビ系列) - 江藤克巳 役 仮面ライダーG(2009年1月31日、テレビ朝日系列、SmaSTATION!! Presents SMAPがんばりますっ!!、【主演:稲垣吾郎】) - 徳川清山 役 ザ・クイズショウ「第1話」(2009年4月18日、日本テレビ) - 安藤康介 役 必殺仕事人2009「第18話 的は婿殿」(2009年5月29日、ABC)- 藤野作兵衛 役 バラエティ [編集] 不可思議探偵団(日本テレビ、2010年4月 - 、司会) ラジオ [編集] FMナイトストリート~PAJAMA PRESS (1988年-1992年、JFN系列) 映画 [編集] この胸のときめきを(1988年、東映クラシックフィルム・ケントスムービーブラザーズ、【監督:和泉聖治】) オルゴール(1989年3月11日、東映、【監督:黒土三男、主演:長渕剛】) - 新居翔 役 ウォータームーン(1989年、東映=ユイ音楽工房=おふぃすれん、【監督:工藤栄一、主演:長渕剛】) 白い手 (1990年4月、東宝) 獅子王たちの夏(1991年、東映、【監督:高橋伴明、W主演:的場浩司】) - 主演・松永勝 役 とられてたまるか(1992年、東映、【監督:高橋伴明、主演:武田鉄矢】) 獅子王たちの最后(1993年、東映、【監督:高橋伴明、W主演:錦織一清】) - 主演 棒の哀しみ(1994年、ユニタリー企画、【監督:神代辰巳】) 汚い奴(1995年8月12日公開、グランプリエクセレント、【監督:望月六郎】) - 王双五 役 BAD GUY BEACH(1995年10月27日公開、アルゴ・ピクチャーズ、【監督:あいかわ翔】) - 主演・木須志郎 役 勝手にしやがれ!!シリーズ(1995年 - 1996年、【W主演:前田耕陽】) Morocco 横浜愚連隊物語(1996年5月4日公開、ムービーブラザーズ、【監督:和泉聖治、主演:柳葉敏郎】) - 追水吾郎 役 鬼火(1997年、GAGA PRODUCTION、【監督:望月六郎、主演:原田芳雄】) 実録新宿の顔 新宿愚連隊物語(1997年3月15日公開、ムービーブラザーズ、【監督:和泉聖治、主演:的場浩司】) - 石川(医師) 役 うなぎ(1997年5月24日公開、ケイエスエス、【監督:今村昌平、主演:役所広司】) - 野沢祐司 役 北京原人 Who are you?(1997年12月20日公開、東映=テレビ朝日=バンダイ=東北新社、【監督:佐藤純彌、主演:緒形直人】) - 志村大尉 役 虹をつかむ男 南国奮斗編(1997年12月27日公開、松竹、【監督:山田洋次、主演:西田敏行】) - 祝清治 役 蛇の道(1998年、大映、【監督:黒沢清】) 蜘蛛の瞳(1998年、大映、【監督:黒沢清】) 大いなる完(1998年、【監督:高橋伴明、主演:的場浩司】) - 石倉新太郎 役 ニンゲン合格(1999年、大映、【監督:黒沢清】) なで肩の狐(1999年、ミュージアム、【監督:渡辺武】) 借王 −THE MOVIE- 沖縄大作戦(1999年2月) - 主演・安斉満(銀行屋) 役 借王 -THE MOVIE 2000-(2000年7月) 英二(1999年5月1日公開、東映、【監督:黒土三男、主演:長渕剛】) - 水戸常吉 役 実録外伝 武闘派黒社会(1999年9月10日公開、大映、【監督:那須博之、的場浩司】) ナイル(1999年、東映、【監督:和泉聖治、主演:渡瀬恒彦】) dead BEAT(1999年8月7日公開、ギャガ・コミュニケーションズ、【監督:安藤尋】) - 主演・柴田雅人 役 修羅がゆく10 北陸代理決戦(1999年9月4日公開) - 主演・本郷流一(組長) 役 DEAD OR ALIVEシリーズ(1999年 - 2001年、大映=東映ビデオ、【監督:三池崇史、W主演:竹内力】) - 主演・城島猛 役 DEAD OR ALIVE 犯罪者(1999年11月27日公開) DEAD OR ALIVE 2 逃亡者(2000年12月2日公開) DEAD OR ALIVE FINAL(2001年1月12日公開) 新・仁義なき戦い(2000年、東映、【監督:阪本順治、主演:豊川悦司】) 回路(2001年2月3日公開、大映、【監督:黒沢清、主演:加藤晴彦】) - 工事現場の作業員 役 RUSH!(2001年6月23日公開、スローラーナー、【監督:瀬々敬久、兼プロデューサー、主演:キム・ユンジン】) - 昌也 役 マッスルヒート(2002年10月26日公開、東宝、【監督:下山天、主演:ケイン・コスギ】) - 桂木 役 黄泉がえり(2003年1月18日公開、東宝、【監督:塩田明彦、主演:草彅剛】) - 周平 役 梶原三兄弟激動昭和史 すてごろ(2003年) - 真樹日佐夫役 極道恐怖大劇場 牛頭 GOZU(2003年、オフィスアスク、【監督:三池崇史、主演:曽根悠多】)- 尾崎 役 デコトラの鷲シリーズ(2003年 - 2008年、オフィスサンヨー、【監督:香月秀之】) - 主演・飛田鷲一郎 役 デコトラの鷲 祭りばやし(2003年) デコトラの鷲 会津・喜多方・人情街道!(2004年) デコトラの鷲 恋の花咲く清水港(2005年) デコトラの鷲 愛と涙の男鹿半島(2006年) デコトラの鷲 火の国熊本親子特急便(2008年) 木更津キャッツアイ 日本シリーズ(2003年11月1日公開、TBS、【監督:金子文紀、主演:岡田准一】) - 哀川翔(本人)役 この世の外へ クラブ進駐軍 (2004年2月7日公開、松竹、【監督:阪本順治、主演:萩原聖人】) ゼブラーマン(2004年2月14日公開、東映、【監督:三池崇史】) - 主演・ゼブラーマン / 市川新市 役 ゼブラーマン -ゼブラシティの逆襲-(2010年5月1日公開) スペクター(2005年、ビルドアップ、【監督:岡部淳也】) - キャプテン 役 容疑者 室井慎次(2005年8月27日公開、フジテレビ・ROBOT、【監督:君塚良一、主演:柳葉敏郎】) - 工藤敬一(警視庁新宿北警察署刑事課強行犯係 巡査部長) 役 鳶がクルリと(2005年10月1日公開、東映、【監督:薗田賢次、主演:観月ありさ】) - 高松 役 東京ゾンビ(2005年12月10日公開、東芝エンタテインメント、【監督:佐藤佐吉、W主演:浅野忠信】) - ミツオ 役 WARU(2006年、【監督:三池崇史】) 太陽の傷(2006年、シネマパラダイス=東映ビデオ、【監督:三池崇史】) PETBOX(2006年)※全6作・愛情出演 龍が如く 劇場版(2007年3月3日公開、東映、【監督:三池崇史、主演:北村一輝】) - 野口(刑事) 役 Life 天国で君に逢えたら(2007年8月25日公開、「Life天国で君に逢えたら」製作委員会、【監督:新城毅彦、主演:大沢たかお】) - 藤堂完 役 SS エスエス(2008年1月12日公開、SS製作委員会、【監督:小林義則】) - 主演・ダイブツ 役 映画 クロサギ(2008年3月8日公開、東宝、【監督:石井康晴、主演:山下智久】) - 神志名将(刑事) 役 ドロップ(2009年3月20日公開、【監督:品川祐、主演:成宮寛貴】) - 江藤 役 クリアネス(2008年2月16日公開、「クリアネス」製作委員会、【監督:篠原哲雄】) - 成瀬 役 少年メリケンサック(2009年2月14日公開、東映、【監督:宮藤官九郎、主演:宮崎あおい】) - かんなの父 役 クローズZEROⅡ(2009年4月11日公開、東宝、【監督:三池崇史、主演:小栗旬】) 昆虫探偵 ヨシダヨシミ(2010年4月3日公開、「昆虫探偵」製作委員会、【監督:佐藤佐吉】) - 主演・ヨシダヨシミ 役 誘拐ラプソディー(2010年4月3日公開、角川映画、【監督:榊英雄、主演:高橋克典】) - 篠宮智彦 役 |
哀川 翔(あいかわ しょう、1961年5月24日 - )は、日本の俳優、タレント、歌手。
目次 [非表示] 1 人物 2 来歴 3 エピソード 4 受賞歴 5 出演 5.1 テレビドラマ 5.2 バラエティ 5.3 ラジオ 5.4 映画 5.5 オリジナルビデオ 5.6 CM 6 書籍 6.1 関連書籍 6.2 写真集 7 シングル 8 アルバム 9 ミュージックビデオ 10 脚注 11 関連項目 12 外部リンク 人物 [編集] 身長 178cm 趣味は釣り、ゴルフ、昆虫採集(カブトムシ)。 血液型はAB型。 来歴 [編集] 徳島県徳島市生まれ。海上自衛隊の航空幹部だった父親の転勤に伴い山口県岩国市、栃木県宇都宮市、千葉県館山市を転々[1]。哀川が5歳の時、父親が訓練中に事故死。当時母親は臨月だったため、代わりに哀川が父親の亡骸と対面、遺体を確認したという。この後、母の実家・鹿児島県鹿屋市に転居しその後は鹿屋市で育った。鹿屋市立鹿屋小学校、鹿屋市立第一鹿屋中学校、鹿児島県立高山高等学校、東京工学院専門学校卒業。なお本籍地は生まれて今日までずっと祖父が住んでいた東京都に置いているという[1]。 専門学校在学中、雑誌『ポップティーン』の創刊時にアルバイトのライターとして飛鳥新社に出入りするようになる。 路上パフォーマンス集団「劇男一世風靡」に所属し、『前略、道の上より』で「一世風靡セピア」メンバーとしてレコードデビュー。1986年には『青の情景』でソロデビューを果たす。 1988年、同郷の先輩である長渕剛から出演依頼を直々に受けたテレビドラマ『とんぼ』(TBS)でのチンピラ芝居が好評を博す。1990年にはその存在感と演技力を高橋伴明に見込まれ、Vシネマ『ネオ・チンピラ・鉄砲玉ぴゅ~』、映画『獅子王たちの夏』の主役に抜擢される。 1995年には「あいかわ翔」名義で監督デビュー。助演男優として『棒の哀しみ』や『うなぎ』といった話題作での好演も評価され、テレビドラマやテレビコマーシャルへの出演機会が増え始める。2004年に出演した映画『ゼブラーマン』で主演作品100本の快挙を成し遂げる。 翌2005年の日本アカデミー賞で優秀主演男優賞を受賞。近年は内村光良との共演をきっかけにバラエティ番組にも出演。 2010年6月4日(ムシの日)に孫が誕生した。 エピソード [編集] この節の内容に関する文献や情報源が必要です。ご存じの方はご提示ください。出典を明記するためにご協力をお願いします。このタグは2009年4月に貼り付けられました。 この節に雑多な内容が羅列されているので、本文として組み入れるか整理・除去する必要があります。このタグは2009年5月に貼り付けられました。 芸名の由来は、本人は「Show Lonely River」というシャレから付けたと公言している。 映画監督の黒沢清、三池崇史と親交が深い。 高校3年次運動神経も良かったことから体操界の名門日本体育大学への推薦の話があり承諾したが、その話を薦めた教師が願書の提出を忘れてしまった。自身もオリンピックに出場し、その後は体育教師になるのも悪くはないと思っていた。 1年のうち、300日は現場で撮影をしているという生活リズムから、朝が早いことが多い。朝日の昇る前から起き(本人いわく太陽との真剣勝負)、家族が目を覚ます前に散歩をし、開店直後のゴルフ練習場に向かうという。夕方には既に眠くなり、20時か21時には床に入るという。以前、木村一八らと飲酒中に二度も倒れたことがあり、心肺停止状態になるなど生死の境をさまよった経験があることから、それ以降健康的な生活を送るようになったとテレビ番組内で語っている。 妻(元女優・青地公美)とは六本木のカラオケ屋「弐壱」にて武蔵丸の昇進パーティーに参加した際に出会った。青地はその日、矢沢永吉の奥さんとパーティーに来ていた[1]。哀川は青地に一目惚れし声を掛けたが、当時真っ白なスーツと黒いサングラスという格好だったため、誰なのか分からず怖くなった青地は、その場を去って別の店に行ったという。哀川は、「まだ、そんな遠くに行ってないはずだから探せ!」と後輩や仲間に声を掛けて、六本木近辺を探させた。そして、別の店にいた青地を見つけ「帰るんなら帰るって言えよ、バカヤロー!」と言ったとのこと。その出会いをきっかけに同棲をすぐ始めたという。青地は離婚歴があり子連れだったため、結婚した途端に3人の子供の父親となった。大変子育てに厳しく、「うちは家族じゃないんだ。族だから」と語る通り、約束した時間に遅れるなどすると容赦なく鉄拳制裁。「嘘をつかない、人の物を取らない、人を傷つけない」の三原則を破ると「半殺し」だと言う。そして、家は、「溜まり場」であり、心地よくしなくてはいけないと教える。その反面、大変子煩悩の一面もあると言われる。 高校卒業後、上京してからは、前述の通り一世風靡の路上公演、雑誌記者としての取材、ほぼ毎日ディスコに入り浸っていたなどハードな生活だったが、籍を置いていた専門学校は2年間皆勤で卒業した。哀川は「一度決めたことはやらなきゃいけないし、学校に行くのだって親に金出してもらってタダじゃないんだから」と語っている。 |