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哀川 翔(あいかわ しょう、1961年5月24日 - )は、日本の俳優、タレント、歌手。
目次 [非表示] 1 人物 2 来歴 3 エピソード 4 受賞歴 5 出演 5.1 テレビドラマ 5.2 バラエティ 5.3 ラジオ 5.4 映画 5.5 オリジナルビデオ 5.6 CM 6 書籍 6.1 関連書籍 6.2 写真集 7 シングル 8 アルバム 9 ミュージックビデオ 10 脚注 11 関連項目 12 外部リンク 人物 [編集] 身長 178cm 趣味は釣り、ゴルフ、昆虫採集(カブトムシ)。 血液型はAB型。 来歴 [編集] 徳島県徳島市生まれ。海上自衛隊の航空幹部だった父親の転勤に伴い山口県岩国市、栃木県宇都宮市、千葉県館山市を転々[1]。哀川が5歳の時、父親が訓練中に事故死。当時母親は臨月だったため、代わりに哀川が父親の亡骸と対面、遺体を確認したという。この後、母の実家・鹿児島県鹿屋市に転居しその後は鹿屋市で育った。鹿屋市立鹿屋小学校、鹿屋市立第一鹿屋中学校、鹿児島県立高山高等学校、東京工学院専門学校卒業。なお本籍地は生まれて今日までずっと祖父が住んでいた東京都に置いているという[1]。 専門学校在学中、雑誌『ポップティーン』の創刊時にアルバイトのライターとして飛鳥新社に出入りするようになる。 路上パフォーマンス集団「劇男一世風靡」に所属し、『前略、道の上より』で「一世風靡セピア」メンバーとしてレコードデビュー。1986年には『青の情景』でソロデビューを果たす。 1988年、同郷の先輩である長渕剛から出演依頼を直々に受けたテレビドラマ『とんぼ』(TBS)でのチンピラ芝居が好評を博す。1990年にはその存在感と演技力を高橋伴明に見込まれ、Vシネマ『ネオ・チンピラ・鉄砲玉ぴゅ~』、映画『獅子王たちの夏』の主役に抜擢される。 1995年には「あいかわ翔」名義で監督デビュー。助演男優として『棒の哀しみ』や『うなぎ』といった話題作での好演も評価され、テレビドラマやテレビコマーシャルへの出演機会が増え始める。2004年に出演した映画『ゼブラーマン』で主演作品100本の快挙を成し遂げる。 翌2005年の日本アカデミー賞で優秀主演男優賞を受賞。近年は内村光良との共演をきっかけにバラエティ番組にも出演。 2010年6月4日(ムシの日)に孫が誕生した。 エピソード [編集] この節の内容に関する文献や情報源が必要です。ご存じの方はご提示ください。出典を明記するためにご協力をお願いします。このタグは2009年4月に貼り付けられました。 この節に雑多な内容が羅列されているので、本文として組み入れるか整理・除去する必要があります。このタグは2009年5月に貼り付けられました。 芸名の由来は、本人は「Show Lonely River」というシャレから付けたと公言している。 映画監督の黒沢清、三池崇史と親交が深い。 高校3年次運動神経も良かったことから体操界の名門日本体育大学への推薦の話があり承諾したが、その話を薦めた教師が願書の提出を忘れてしまった。自身もオリンピックに出場し、その後は体育教師になるのも悪くはないと思っていた。 1年のうち、300日は現場で撮影をしているという生活リズムから、朝が早いことが多い。朝日の昇る前から起き(本人いわく太陽との真剣勝負)、家族が目を覚ます前に散歩をし、開店直後のゴルフ練習場に向かうという。夕方には既に眠くなり、20時か21時には床に入るという。以前、木村一八らと飲酒中に二度も倒れたことがあり、心肺停止状態になるなど生死の境をさまよった経験があることから、それ以降健康的な生活を送るようになったとテレビ番組内で語っている。 妻(元女優・青地公美)とは六本木のカラオケ屋「弐壱」にて武蔵丸の昇進パーティーに参加した際に出会った。青地はその日、矢沢永吉の奥さんとパーティーに来ていた[1]。哀川は青地に一目惚れし声を掛けたが、当時真っ白なスーツと黒いサングラスという格好だったため、誰なのか分からず怖くなった青地は、その場を去って別の店に行ったという。哀川は、「まだ、そんな遠くに行ってないはずだから探せ!」と後輩や仲間に声を掛けて、六本木近辺を探させた。そして、別の店にいた青地を見つけ「帰るんなら帰るって言えよ、バカヤロー!」と言ったとのこと。その出会いをきっかけに同棲をすぐ始めたという。青地は離婚歴があり子連れだったため、結婚した途端に3人の子供の父親となった。大変子育てに厳しく、「うちは家族じゃないんだ。族だから」と語る通り、約束した時間に遅れるなどすると容赦なく鉄拳制裁。「嘘をつかない、人の物を取らない、人を傷つけない」の三原則を破ると「半殺し」だと言う。そして、家は、「溜まり場」であり、心地よくしなくてはいけないと教える。その反面、大変子煩悩の一面もあると言われる。 高校卒業後、上京してからは、前述の通り一世風靡の路上公演、雑誌記者としての取材、ほぼ毎日ディスコに入り浸っていたなどハードな生活だったが、籍を置いていた専門学校は2年間皆勤で卒業した。哀川は「一度決めたことはやらなきゃいけないし、学校に行くのだって親に金出してもらってタダじゃないんだから」と語っている。 PR |
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