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【2024/11/28 07:33 】 |
踊り188
年度別守備成績 [編集]

度 一塁 二塁 三塁 遊撃 外野
試合 刺殺 補殺 失策 併殺 守備率 試合 刺殺 補殺 失策 併殺 守備率 試合 刺殺 補殺 失策 併殺 守備率 試合 刺殺 補殺 失策 併殺 守備率 試合 刺殺 補殺 失策 併殺 守備率
2001 - - - 2 0 3 0 0 1.000 -
2002 - 16 34 32 1 9 .985 2 0 1 0 0 1.000 2 0 1 0 1 1.000 -
2003 1 3 0 0 0 1.000 24 49 63 4 11 .966 - 18 28 60 5 7 .946 -
2004 - 82 196 274 10 56 .979 - 9 5 14 2 2 .905 -
2005 4 6 1 0 0 1.000 1 0 1 0 0 1.000 9 4 10 1 1 .933 - 59 78 0 1 0 .987
2006 43 328 14 1 27 .997 60 128 174 10 37 .968 1 0 3 0 0 1.000 - 12 13 1 0 0 1.000
2007 - - - - 79 119 1 2 0 .984
2008 119 1094 75 5 96 .996 - - - 11 12 0 0 0 1.000
2009 - - - - 130 216 1 3 1 .986
2010 73 651 38 4 47 .994 - - - 72 127 6 0 2 1.000
通算 240 2082 128 10 170 .996 183 407 544 25 113 .974 12 4 14 1 1 .947 31 33 78 7 9 .940 363 565 9 6 3 .990
2010年度シーズン終了時
背番号 [編集]
25 (2001年)
2 (2002年 - )
24 (2009年WBC)
タイトル・表彰 [編集]
首位打者:1回(2008年)
最多安打:1回(2008年)
最高出塁率:1回(2008年)
ベストナイン:通算2回(2008年 = 一塁手部門、2009年 = 外野手部門)
セ・リーグ会長特別賞:1回(2008年、右打者史上最高打率に対しての表彰)
月間MVP:1回(2008年8月)
オールスターゲームベストバッター賞、マツダ ビアンテ賞(イチロー以来の5打席連続安打)
大分市民栄誉賞(2008年)
個人記録 [編集]
初出場:2001年3月30日、ヤクルトスワローズ戦(横浜スタジアム)、9回裏にジョン・ズーバーの代走として出場
初安打:2002年4月24日、対中日ドラゴンズ5回戦(札幌ドーム)、9回裏にエディ・ギャラードから右前安打
初先発出場:2002年5月3日、対読売ジャイアンツ7回戦(横浜スタジアム)、7番・二塁手として先発出場
初本塁打・初打点:2002年7月7日、対中日ドラゴンズ15回戦(石川県立野球場)、5回表に山井大介から左越ソロ
初盗塁:2003年6月8日、対読売ジャイアンツ14回戦(横浜スタジアム)、3回裏に二盗(投手:工藤公康、捕手:村田善則)
3打席連続本塁打:2004年5月18日、対読売ジャイアンツ7回戦(横浜スタジアム)、1回裏・3回裏に木佐貫洋、4回裏にマシュー・ランデルから
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【2010/11/02 20:16 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
踊り187
年度別打撃成績 [編集]


度 球

団 試

合 打

席 打

数 得

点 安

打 二

打 三

打 本

打 塁

打 打

点 盗

塁 盗

死 犠

打 犠

飛 四

球 敬

遠 死

球 三

振 併

打 打

率 出

率 長

率 O
P
S
2001 横浜 3 2 2 1 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 .000 .000 .000 .000
2002 42 73 66 11 22 4 1 2 34 7 0 0 3 0 4 1 0 13 1 .333 .371 .515 .887
2003 45 161 150 20 47 5 0 4 64 18 4 4 6 0 5 0 0 13 1 .313 .335 .427 .762
2004 94 369 338 55 97 11 1 17 161 45 2 7 12 1 18 0 0 42 7 .287 .322 .476 .798
2005 90 262 234 33 64 11 0 5 90 23 1 1 6 1 19 1 2 36 10 .274 .332 .385 .717
2006 124 439 402 41 115 15 2 4 146 34 8 3 7 3 22 0 5 64 9 .286 .329 .363 .692
2007 92 274 247 24 69 17 3 7 113 29 3 4 4 1 16 0 6 37 9 .279 .337 .457 .795
2008 135 544 500 83 189 37 1 14 270 67 2 3 5 4 31 1 4 49 7 .378 .416 .540 .956
2009 132 552 503 65 160 32 2 17 247 66 1 5 2 4 42 5 1 56 16 .318 .369 .491 .860
2010 144 637 577 75 182 36 4 9 253 66 1 2 3 4 47 1 6 51 17 .315 .371 .438 .809
通算:10年 901 3313 3019 408 945 168 14 79 1378 355 22 29 48 18 204 9 24 361 77 .313 .364 .463 .827
【2010/11/02 20:16 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
内川聖一
├─≠ョ─ヵラス FA宣言
├─≠ョ─ヵラス









経歴 [編集]

高校時代 [編集]
大分工高時代は、骨嚢腫[1]により左かかとを3回に渡って手術しながらも、通算43本塁打を放った。3年夏の大分県大会には遊撃手として出場し、チームは準優勝。
当時大分工高の監督でもあった父親の内川一寛が法政大学出身だったため、内川も法大進学が確実視されていたが、横浜のドラフト1位指名を受けて入団[2]。広島も指名予定だったが、”練習がきつい”(NHKの広島カープのスカウトを追うドキュメンタリー番組でもそのシーンが放送された。)ということもあり事前に拒否した。
プロ入り後 [編集]
1年目から1軍を経験。プロ入り2年目の2002年から主に代打として42試合に出場。70打席ながら打率.333、2本塁打と打撃センスを見せる。
2003年の春季キャンプ中、突如右目の視力が極端に悪くなり、開幕を二軍で迎えた。シーズン途中に不調で二軍落ちした石井琢朗に代わり、5月から2番遊撃手のレギュラーに定着する。しかし原因不明の体調不良が続き右手の握力が弱くなり、ボールを握ることすらできなくなったため、6月に登録抹消。9月に一軍復帰した後は二塁手で起用され、打率.313の好成績を残した。体調不良の原因はアゴが右側に曲がり頚椎の神経を圧迫していたことと判明。契約更改では顎の整形代という理由で年俸を微増された(整形はせず奥歯のかみ合わせを矯正する事によって問題を解消した)。
2004年、7番・二塁手として初の開幕スタメンに起用され、1年を通じて二塁スタメン出場が多くなった。打撃では自己最多の17本塁打を放ち、得点圏打率は4割後半を記録した。
2005年、堅守の二塁手種田仁が打撃好調だったため、慣れない左翼手のポジションを小池正晃や古木克明と争うが、後半戦のレギュラーは守備力の高い小池に固定され代打での出場が多くなった。
2006年には打撃不振の種田に代わり二塁手に復帰するが、佐伯貴弘を筆頭にチームに故障者が相次いだことや、自身の送球難から左翼手や一塁手に回る事も多かった[3]。初めて100試合出場を達成したが、最終規定打席(452)には届かなかった。
2007年、多村仁の移籍や自身の守備難により本格的に外野手へコンバートされ、右翼手に固定された。開幕から結果が出ず二軍落ちも経験するが、一軍復帰後の8月には打率.448を記録し復活した(このシーズンはプロ入り後初めてシーズン通し外野を守った)。
2008年は開幕から打撃好調で、佐伯の不振により4月末に一塁手のレギュラーに定着。打率が4割を超える時期も長く、オールスターゲームに監督推薦で初出場(外野手部門)、2試合を通じて5打席連続安打を記録し、マツダ・ビアンテ賞を獲得した。レギュラーシーズンにおいて右打者としては1999年のロバート・ローズを抜き、日本人選手のセリーグ記録も更新する打率.378をマークし(それまでは1951年の巨人の川上哲治の.377でわずか1厘差)、自身初の首位打者に輝いた。このシーズンは最多安打(189安打)、最高出塁率(.416)のタイトルも獲得している。また、得点圏打率も両リーグトップの.449をマークした。村田修一、吉村裕基とともに右打者クリーンアップは低迷するチームの中にあって他チームの脅威とされた。
2009年、WBC日本代表に選出され第1ラウンド2回戦の韓国戦に6番・一塁手として先発出場。金廣鉉(キム・グァンヒョン)から三塁線を破る2点適時二塁打を放ち、勝利に大きく貢献した。第2ラウンド1位を決める韓国戦でも、先制された直後に張洹三から同点本塁打を放った。
2009 ワールド・ベースボール・クラシック 決勝の韓国戦では6番・左翼手として出場し、5回裏の守りでは高永民が打った鋭い当たりにスライディングで突っ込み、正確な送球で打者走者を二塁でアウトにする好プレーを見せた。打撃でも3安打と活躍し、10回表に先頭打者として右前安打を打ち、日本勝ち越しとなるイチローの2点タイムリー安打を呼び込み、決勝点のホームを踏んだ。WBCでの成績は6試合で、主に左投手対策の左キラーとして起用された。18打数6安打1本塁打、打率.333。
同年3月30日、WBCで右脚故障を発生させて帰国した村田に代わり、初の四番打者となり、全打順での試合出場を達成した。シーズンでは、アレックス・ラミレスと首位打者争いを繰り広げ、リーグ2位の打率.318をマークした。この年は左翼手を守った。
10月5日、フジテレビアナウンサーの長野翼との交際が明らかになり[4]、2010年3月24日に結婚した[5]。
2010年6月3日に、国内FA権を獲得。6月15日の対ソフトバンク戦で小椋真介から自身初の満塁本塁打を放った。初のシーズン全試合出場、3年連続打率3割を達成した。
人物 [編集]

顎が非常に長く、試合中のベンチで佐伯やドミンゴ(2002年~2003年まで横浜に在籍)に顎で遊ばれているシーンが見られる。
楽天コーチの吉田豊彦とは子供のころからの知り合いである。
マーク・クルーンのジャパニーズネーム「タカユキ」の名付け主。
2009年7月12日、観覧試合の前に皇太子一家への挨拶を果たし、愛子内親王が自分のファンであることを聞かされて「僕でいいのかな」とコメントしている[6]。
プレースタイル [編集]

早打ち型で三振・四球ともに少ない。首位打者への成長は、杉村繁コーチと取り組んだボールを体の近くまで引き付けて打つスイングへの打撃改造によるもの。中日の和田一浩がキャンプ中はカーブマシンしか打たないと聞いて、「遅いボールを強く打つということがどれだけ大変なのかが改めてわかった」とコメントしている[7]。もともとは前でさばくバッティングが特徴で本人も自信を持っていたが、レギュラーに定着できていなかったため、杉村コーチのアドバイスを聞き入れ打撃スタイルを変えたとのこと[8]。
左投手と相性が良く、特に2008年には対左投手の打率が.439であった。これがWBC日本代表の原辰徳監督に評価され[9]、WBCでは相手が左の投手戦で積極的に3番に起用。しかし右投手が苦手ということはなく、2009年には右投手から3割4分打った。
もともと内野手だったが、近年は主に一塁手や外野手として出場している。
【2010/11/02 20:15 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
トミドコロ
├─≠ョ─ヵラス 加藤浩二
├─≠ョ─ヵラス









概要
いしいにとって初めての(毎日掲載を前提とした)新聞連載作品である[1]。しかし、それまでの雑誌などでの作風を大きく変えることなく、作品を執筆している。このため、全国紙の新聞連載4コママンガとしては前例のないような表現が見られる(特に『となりの山田くん』初期)。その一つとして、レギュラー人物に関西弁を話すキャラクターを複数設定したことがあげられる。また、有名人に対するあからさまな揶揄や、隠語に近い言葉を登場人物にしゃべらせるといった点もある。例としては以下のようなものがあった。日常漫画でありながらもSFやファンタジー的な要素も折り込まれている。
内閣総理大臣退任からまもない時期の海部俊樹を「英語をしゃべらない宮沢さん」とあからさまな形で揶揄した[2]。
角川春樹が麻薬取締法違反の容疑で逮捕されたとき、「クスリなしでもラリっとった」というセリフを登場人物(しげ)に言わせた[3]。
渡邉恒雄をモデルとするワンマンマンを登場させた。このエピソードの発表時は、読売新聞側が「特定個人(渡邉)を中傷するような漫画の掲載」を非難する事態になった[4]。
兵庫県南部地震発生直後には被災地の住民の安否を気遣う山田一家の様子が描かれた。その後も約5日間に渡り同地震関連の作品を立て続けに掲載している。ひとつの時事ネタをこれほど連続して描いたのは後にも先にもこの時のみであった。『ののちゃん』となってからは、有名人の揶揄も含め、時事ネタは減少している。
初期は振り仮名はついていなかったが、現在はカタカナで振り仮名がついている。新聞連載4コママンガとしては、オチが難解なエピソードも散見されるが、それがこの作品に独特の味を生んでいる。
「となりのやまだ君」と「ののちゃん」の相違点 [編集]
改題の際、世界観は同じであるが、登場人物の配役が一部変更された。
「となりのやまだ君」では、のの子の小学校の校長先生だったキャラクター(野村監督を流用した物)が、「ののちゃん」では市民病院の院長として登場した。
「となりのやまだ君」では、まつ子の甥っ子で売れない推理小説家だった田淵コ-スケが、「ののちゃん」では第三小学校の体育の先生の田淵先生として登場する。
「となりのやまだ君」では、小さな工場の社長だったキャラクターが、ののちゃんでは小学校の校長先生になっている。
たかしの兄(義男、のの子の伯父)は「となりのやまだ君」では近所でアパート経営をしていたが、「ののちゃん」では故郷で農業をしている。
のぼるの学年の生徒の数が500人(となりのやまだ君)から、200人、180人(ののちゃん)と減っている
【2010/10/29 22:33 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
てっぱん
├─≠ョ─ヵラス 四日市
├─≠ョ─ヵラス









オクサレ様 / 河の神
作中の中盤に登場する神様。ヘドロを固めたような姿で、臭いが強烈である。そのせいか、汚れたお客専門という『大湯』に案内される。またその臭いの酷さは青蛙たちが必死に拒んでいる様子や、リンが運んできたメシを一瞬で腐らせる様子からも読み取る事が出来る。しかし、千が自転車のハンドルに気付き、湯婆婆やリンの力を借りて、河の神の姿に戻す。その正体は名のある河の主で、御爺さんの仮面のような顔に龍のような体を持つ。汚れをすべて落とした後、「よきかな・・」と呟いて大戸から笑い声と共に帰って行った。このとき出てきた大量のごみは、河の神を主とする川に捨てられたごみだと思われる。このとき千にお礼として食べると体内にある悪い物を吐き出せる作用がある苦団子をあげた(油屋には湯婆婆が大儲けと言うほどの砂金を残した)。
ススワタリ(まっくろくろすけ)
イガ栗のような形をした黒い実体。ジブリ作品『となりのトトロ』にも登場する。が、こちらには足が生えている。魔法の力で煤から生まれたらしく、常に働いていないと死んでしまうが、潰れて煤に戻ってもいつのまにか煤から生まれてくるらしい。釜爺の指示で石炭を抱えて運び、ボイラー室の炉に放り込むのが仕事。好物は砂糖菓子(金平糖)。千尋の服と靴を預かっている。
【2010/10/28 01:24 】 | 未選択 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
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