├─≠ョ─ヵラス FA宣言経歴 [編集]
高校時代 [編集]
大分工高時代は、骨嚢腫[1]により左かかとを3回に渡って手術しながらも、通算43本塁打を放った。3年夏の大分県大会には遊撃手として出場し、チームは準優勝。
当時大分工高の監督でもあった父親の内川一寛が法政大学出身だったため、内川も法大進学が確実視されていたが、横浜のドラフト1位指名を受けて入団[2]。広島も指名予定だったが、”練習がきつい”(NHKの広島カープのスカウトを追うドキュメンタリー番組でもそのシーンが放送された。)ということもあり事前に拒否した。
プロ入り後 [編集]
1年目から1軍を経験。プロ入り2年目の2002年から主に代打として42試合に出場。70打席ながら打率.333、2本塁打と打撃センスを見せる。
2003年の春季キャンプ中、突如右目の視力が極端に悪くなり、開幕を二軍で迎えた。シーズン途中に不調で二軍落ちした石井琢朗に代わり、5月から2番遊撃手のレギュラーに定着する。しかし原因不明の体調不良が続き右手の握力が弱くなり、ボールを握ることすらできなくなったため、6月に登録抹消。9月に一軍復帰した後は二塁手で起用され、打率.313の好成績を残した。体調不良の原因はアゴが右側に曲がり頚椎の神経を圧迫していたことと判明。契約更改では顎の整形代という理由で年俸を微増された(整形はせず奥歯のかみ合わせを矯正する事によって問題を解消した)。
2004年、7番・二塁手として初の開幕スタメンに起用され、1年を通じて二塁スタメン出場が多くなった。打撃では自己最多の17本塁打を放ち、得点圏打率は4割後半を記録した。
2005年、堅守の二塁手種田仁が打撃好調だったため、慣れない左翼手のポジションを小池正晃や古木克明と争うが、後半戦のレギュラーは守備力の高い小池に固定され代打での出場が多くなった。
2006年には打撃不振の種田に代わり二塁手に復帰するが、佐伯貴弘を筆頭にチームに故障者が相次いだことや、自身の送球難から左翼手や一塁手に回る事も多かった[3]。初めて100試合出場を達成したが、最終規定打席(452)には届かなかった。
2007年、多村仁の移籍や自身の守備難により本格的に外野手へコンバートされ、右翼手に固定された。開幕から結果が出ず二軍落ちも経験するが、一軍復帰後の8月には打率.448を記録し復活した(このシーズンはプロ入り後初めてシーズン通し外野を守った)。
2008年は開幕から打撃好調で、佐伯の不振により4月末に一塁手のレギュラーに定着。打率が4割を超える時期も長く、オールスターゲームに監督推薦で初出場(外野手部門)、2試合を通じて5打席連続安打を記録し、マツダ・ビアンテ賞を獲得した。レギュラーシーズンにおいて右打者としては1999年のロバート・ローズを抜き、日本人選手のセリーグ記録も更新する打率.378をマークし(それまでは1951年の巨人の川上哲治の.377でわずか1厘差)、自身初の首位打者に輝いた。このシーズンは最多安打(189安打)、最高出塁率(.416)のタイトルも獲得している。また、得点圏打率も両リーグトップの.449をマークした。村田修一、吉村裕基とともに右打者クリーンアップは低迷するチームの中にあって他チームの脅威とされた。
2009年、WBC日本代表に選出され第1ラウンド2回戦の韓国戦に6番・一塁手として先発出場。金廣鉉(キム・グァンヒョン)から三塁線を破る2点適時二塁打を放ち、勝利に大きく貢献した。第2ラウンド1位を決める韓国戦でも、先制された直後に張洹三から同点本塁打を放った。
2009 ワールド・ベースボール・クラシック 決勝の韓国戦では6番・左翼手として出場し、5回裏の守りでは高永民が打った鋭い当たりにスライディングで突っ込み、正確な送球で打者走者を二塁でアウトにする好プレーを見せた。打撃でも3安打と活躍し、10回表に先頭打者として右前安打を打ち、日本勝ち越しとなるイチローの2点タイムリー安打を呼び込み、決勝点のホームを踏んだ。WBCでの成績は6試合で、主に左投手対策の左キラーとして起用された。18打数6安打1本塁打、打率.333。
同年3月30日、WBCで右脚故障を発生させて帰国した村田に代わり、初の四番打者となり、全打順での試合出場を達成した。シーズンでは、アレックス・ラミレスと首位打者争いを繰り広げ、リーグ2位の打率.318をマークした。この年は左翼手を守った。
10月5日、フジテレビアナウンサーの長野翼との交際が明らかになり[4]、2010年3月24日に結婚した[5]。
2010年6月3日に、国内FA権を獲得。6月15日の対ソフトバンク戦で小椋真介から自身初の満塁本塁打を放った。初のシーズン全試合出場、3年連続打率3割を達成した。
人物 [編集]
顎が非常に長く、試合中のベンチで佐伯やドミンゴ(2002年~2003年まで横浜に在籍)に顎で遊ばれているシーンが見られる。
楽天コーチの吉田豊彦とは子供のころからの知り合いである。
マーク・クルーンのジャパニーズネーム「タカユキ」の名付け主。
2009年7月12日、観覧試合の前に皇太子一家への挨拶を果たし、愛子内親王が自分のファンであることを聞かされて「僕でいいのかな」とコメントしている[6]。
プレースタイル [編集]
早打ち型で三振・四球ともに少ない。首位打者への成長は、杉村繁コーチと取り組んだボールを体の近くまで引き付けて打つスイングへの打撃改造によるもの。中日の和田一浩がキャンプ中はカーブマシンしか打たないと聞いて、「遅いボールを強く打つということがどれだけ大変なのかが改めてわかった」とコメントしている[7]。もともとは前でさばくバッティングが特徴で本人も自信を持っていたが、レギュラーに定着できていなかったため、杉村コーチのアドバイスを聞き入れ打撃スタイルを変えたとのこと[8]。
左投手と相性が良く、特に2008年には対左投手の打率が.439であった。これがWBC日本代表の原辰徳監督に評価され[9]、WBCでは相手が左の投手戦で積極的に3番に起用。しかし右投手が苦手ということはなく、2009年には右投手から3割4分打った。
もともと内野手だったが、近年は主に一塁手や外野手として出場している。
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