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尾崎 加寿夫(おざき かずお、1960年3月7日 - )は、日本の元サッカー選手、サッカー解説者。ポジションはフォワード。奥寺康彦や風間八宏らと共に1980年代に西ドイツでプレーした、現在の海外組と言われる選手達の草分け的存在である。
目次 [非表示] 1 来歴 2 所属クラブ 3 個人成績 4 代表歴 4.1 出場大会など 4.2 試合数 4.3 得点数 来歴 [編集] 1978年4月、日本大学高等学校から三菱重工へ加入。高校時代から将来を嘱望されたFWであった。 1979年、日本ユース代表の主将としてFIFAワールドユース選手権日本大会に出場。0勝2分1敗で1次リーグ敗退。 1981年、日本代表に選出される。 1982年6月、日本代表でジャパンカップキリンワールドサッカー82(現・キリンカップ)に出場。対フェイエノールト戦で4得点を挙げるなど、計6得点の活躍をする(この時来日したヴェルダー・ブレーメンには奥寺康彦が所属していた)。7月、日本代表として西ドイツ遠征に参加。この時対戦したビーレフェルトのホルスト・ケッペル監督に、練習への参加を要請される。10月、三菱の4年ぶりの日本サッカーリーグ制覇に貢献し、アシスト王と日本年間最優秀選手賞を受賞。 1983年6月、ジャパンカップ83を体調不良を理由に欠場。この期間に無断で渡独しビーレフェルトの練習に参加していた事が発覚すると選手規定に抵触するとし大問題に発展する(尾崎問題)。7月、三菱重工サッカー部を退部しビーレフェルトに移籍。8月13日、ドイツ・ブンデスリーガに日本人2人目のプロ選手としてデビュー。初戦のシャルケ04戦で初得点を決める。11月5日、奥寺康彦の所属するブレーメンと対戦。これが海外での日本人選手同士の初対決となった。 1986年、ビーレフェルトは2部(ツヴァイテリーガ)へ降格。 1988年、活躍の場を求め、ブンデスリーガのザンクト・パウリに移籍。 1989年、アマチュアクラブのツゥル・デュッセルドルフに移籍。 1990年、三菱自動車工業(現・浦和レッズ)へ復帰。 1993年、ヴェルディ川崎(現・東京ヴェルディ)へ移籍。リーグ戦に2試合出場し、シーズン終了後に現役引退。 日本リーグ通算78試合出場、20得点。国際Aマッチ17試合出場、3得点。 所属クラブ [編集] 日本大学高校 1978年-1983年 三菱重工業サッカー部 1983年-1988年 アルミニア・ビーレフェルト(ドイツ) 1988年-1989年 FCザンクトパウリ(ドイツ) 1989年-1990年 トゥル・デュッセルドルフ(ドイツ、アマチュア) 1990年-1992年 三菱自動車工業サッカー部/浦和レッドダイヤモンズ 1993年 ヴェルディ川崎 |
小倉 隆史(おぐら たかふみ、1973年7月6日 - )は、三重県鈴鹿市出身の元サッカー選手、解説者、タレント。
名前の読みは反町隆史やナインティナインの岡村隆史と同字だが、「たかふみ」である。(上記の2人は「たかし」。) 目次 [非表示] 1 人物 2 選手時代の特徴 3 来歴 4 エピソード 5 所属クラブ 6 経歴 7 個人成績 8 出場大会 9 代表歴 9.1 出場大会など 9.2 試合数 10 関連情報 10.1 テレビ・ラジオ番組 11 関連項目 12 脚注 13 外部リンク 人物 [編集] 愛称はオグ。現役時代のポジションはフォワードで、得意の左足での強烈なシュートから「レフティモンスター」と呼ばれた。 高校サッカー選手権での活躍以来の根強いファンを持ち、評論家はもちろん、当時の日本国民を推して誰もが認める「天才」「未来の日本のエース」たる存在だった。日本代表のフォワードは10年は安泰だと言わしめた高い実力と人気を備えていた。 四日市中央工業高校時代は、中西永輔や中田一三と同級生で、四中工三羽烏と呼ばれ、2000年にはジェフユナイテッド市原で3人揃って同じJリーグクラブでのプレーが実現した。以前より海外志向が強かったため、しばしばオランダでプレーする話も聞かれたが、負傷から復帰後は実現しなかった。 選手時代の特徴 [編集] ドリブル、シュート、パスなど高い技術を持っていたが、怪我からの復帰後は以前のスピードが低下し、常にトップコンディションを維持する事はできなかったが、随所にその高いサッカーセンスから生み出されるゲームの動向を左右し、ファンを楽しませた。 サッカーライターの金子達仁が命名した「レフティーモンスター」(直訳:「左利きの怪物」「左足の怪物」といわれることのほうが多い)の異名通り、大柄な体躯を十分に生かした、振り足の早い左足からの強力なシュートも武器のひとつであった。 前線で張るよりは中盤に下がってボールを持って自ら展開することが多く、そのプレースタイルは、「1列目よりも1.5列目」と自称した。イタリアの名選手ロベルト・バッジョ等に影響を受けていると公言していた。正確なロングパスによる展開力は他の中盤の選手を凌ぐセンスを備えていたが、その反面、常にゴール前にポジションを取ることが出来ず、さらに怪我の影響で運動量も低下したため、監督や戦術によっては起用されないことがあった。 来歴 [編集] 高校時代は、1991年の高校サッカー選手権を帝京高校との両校同時優勝という形で制覇し、Jリーグ誕生前夜の1992年に名古屋グランパスエイトに入団した。その年に行われた第1回ナビスコカップで、サッカーファンに強烈な印象を与えた。 翌1993年には、オランダ2部リーグのエクセルシオールへレンタル移籍し、チーム得点王となる活躍をして、オランダ1部リーグのトップチームからのオファーも来たとも言われている。しかし、本所属の名古屋からの帰国要請と、当時はアトランタ五輪出場を目標とする、U-22日本代表監督西野朗からの代表招集もあり、日本に復帰した。ファルカン率いる日本代表にも選ばれ、フランス戦では、途中出場でカズと共に2トップを組み、ゴールを奪う活躍を見せた。 アトランタ五輪予選では活躍するも、最終予選直前の合宿で右足後十字靭帯を断裂し、選手生命を奪いかねない重傷を負った。(当時怪我を負った直後の小倉が、芝の上で仰向けになり拳を地面にたたきつけて悔しがっている映像が放映された)その後、幾度の手術により1997年シーズンでの全試合欠場を経て公式戦に復帰するもゴール数の減少は隠せず、小倉を語る際にはしばしば「悲劇」の形容詞が付けられるようになった。2000年のジェフユナイテッド市原、東京ヴェルディ1969、コンサドーレ札幌、ヴァンフォーレ甲府と4年連続での移籍となった。 2003年に入団し、小倉にとって初のJリーグ2部(J2)挑戦となった甲府では移籍後から中心選手として活躍し、かつての弱小クラブが成績・人気両面で上昇カーブを描くのに貢献した。2005年シーズンも開幕当初はレギュラーであったものの、若手の台頭と戦術面から出場機会を失い[2]、クラブのJ1昇格の影でオフに戦力外通告を受けた。2006年1月10日に合同トライアウトに参加し移籍先を探していたが現役続行を断念し、同年2月10日に現役引退を宣言した。引退セレモニーは、最後に所属した甲府がJ1としての初試合を行った2006年3月5日に、ホームスタジアムの山梨県小瀬スポーツ公園陸上競技場でのシーズン開幕戦(vs清水エスパルス)の試合前に行われた。 選手時代の物怖じしない態度と、周囲を笑わせるような明るい性格から、引退後には、スーパーサッカーやNEWS23などの解説者として抜擢され、テレビ中継の解説[3]なども精力的に行っている。その一方で、A級ライセンスを取得し、将来の指導者としても修行中である。 エピソード [編集] 四日市中央工業高校時代の背番号は17番(小倉が1年時に3年生でエースの水嶋勇夫が付けていた背番号。水嶋は抜群の得点感覚を持ち、バルセロナ五輪予選代表候補にも選出されていた)であった。サッカー選手としては補欠番号の印象ではあるが、四日市中央工業高校では17番は今もなおエースナンバーである。 木訥とした風貌からか、時として「小生意気」との印象を与えることもあるが、実際の彼は非常に礼儀正しく、腰も低い。それは現役時代の試合中でもそうであった。名古屋グランパスエイト時代、ストイコビッチに試合中にコーチングを受ける時の彼は、常に直立不動の姿勢で話を聞いている。 穏やかな性格ゆえ、審判とのトラブルを起こしたストイコビッチをなだめることがあった。 現役時代から基本的に容姿・風貌が変わっていない。引退した今もなお、サッカー教室などの機会でユニフォームを着れば即、現役サッカー選手のような出で立ちになる。 小倉がサッカーを始める前は野球好きだったが友達とサッカーをやった事がきっかけでサッカーが好きになった。 若き頃の中田英寿をして「尊敬する人は小倉さん」と言わしめた。 出演番組では、ボケを挟みながらの痛快なトークで番組を盛り上げており、同年代の元プロ野球選手・岩本勉とは、元人気選手同士で、2人共にボケキャラで関西弁も交えるコンビのトークは絶妙である。 フリーキックもうまいことが有名で、名古屋時代はチームメイトで当時のエース、ジョルジーニョらに「俺に蹴らせてくれ」と頼んでいる姿もピッチの上でしばしば見られた。現に現役生活の後半ではFKのみならずCKなどプレースキックを数多く担っている。 スーパーサッカーの2008年5月11日放送から小倉隆史プロデュース企画「ボレーの虎」がスタート、番組平均視聴率は4.6%を記録した。 比較的結婚時期が早いサッカー選手の中では珍しく30代半ばまで独身だったが、2010年10月14日放送分の「スーパーサッカー」内で自身の結婚を発表した。 |